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「鷲のように翼を張った新たな力」 イザヤ書40章27~31節

2025-08-17

 エルサレムが主なる神の不思議な業によって救われたアッシリア帝国が、今度は頭角を現してきたバビロニア帝国に打って替わられる。 そのバビロニア帝国が、紀元前586年に南ユダ王国を滅ぼし、人々を囚人として捕縛し連れ去る。 そのバビロニア帝国が紀元前539年にペルシャによって滅ぼされ、なんとそのペルシャ王によってイスラエルの民が「バビロン捕囚」から解放されるという出来事が起こされたのでした。 第二イザヤはこの出来事が起こされる前に、「バビロン捕囚」の民に向けて、エルサレムの崩壊も、バビロン捕囚も、この屈辱的な苦難はすべて神の意志によるものである。 神の大いなる救いのご計画であると先取りし、バビロンからの復帰という新しい歩みに向けて、慰めの預言と救いの宣言を語るのです。 主イエスは、この第二イザヤの預言を我がこととして、御自身の十字架の予兆として受け取り、そのための神の御言葉として受け取ったのです。 27節に、本来神の民であるはずの「ヤコブよ、イスラエルよ」と呼びかけ、「わたしは神に忘れられている。 わたしの訴えは聞き入れられていない。」と、なぜ吐き捨てるのかと迫ります。 確かに異教の地、偶像の神に囲まれていれば、あるいは大多数の人々が正義としているものに出会えば、その信仰生活も疲れ果ててくるでしょう。 しかし、そのような抵抗に遭わないようにしようとする自分自身の生き方こそ、もしかしたら最大の抵抗であるのかもしれません。 聖書は、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、忍耐強く走り抜こうではありませんか。 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブライ12:1-3)と語っています。 第二イザヤは、「苦役の時は今や満ち、咎は償われた。 罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた。」(2節)と言います。 続けて、「あなたは知らないのか。 聞いたことはないのか。」と言い、あなたの神は、「とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。」ではないのかと迫るのです。 初めに地の基いが造られた時、すでに神はおられたではないか。 神には終わりも初めもない。 ここで言う「地の果て」とは、バビロンの地を指すのでしょう。 地図上の場所を示すのではなく、偶像の神に取り囲まれ、武力や権力や物の豊かさや華やかさに支えられている、神の御心から最も遠く離れているところということです。 第二イザヤは、たとえどんなに神から遠ざかっていたとしても、神の救いの届かないところなど存在しない。 すべて神の御心、神のご計画によるものであり、私たちには「英知は究めがたい」と言われる「隠された神」がおられるのです。 神は、自然を通してでも、歴史を通してでも、私たちの過ちや不信仰を通してでも、ご自身をことごとく顕しておられます。 バビロンの地、神から最も遠く離れたところ、「地の果て」から、もともとあった神のもとに再び立ち帰らせるという新しい歩みに向けて、絶望を体験したイスラエルの民に、喜びの宣言を告げているのです。 「疲れた者、勢いを失っている者」である私たちは、神のもとから最も遠く離れたところに抑留された私たちを引き寄せる「倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたく、限られることもない」神の力と知恵を受けることを待つことです。 神が働き出されるまで待つことです。 待たないで、受け取らないで、主に望んでいない者とならないようにと語るのです。 その力は「鷲のように翼を張って上る。」と言う。 鷲のごとく、気流を知り、感じ取り、その流れに翼を委ねて気流に乗って飛んでいく。 「主に望みを置く人」とは、焦ることも、慌てることもなく、神との交わりを絶やさず、神の力と知恵に委ねて、神のもとから注がれる「時々、所々」で吹く風を受け取って舞い上がるのです。



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