「贖われたわたしのもの」 イザヤ書43章1~7節
主なる神は、イザヤを通して、「耳の聞こえない人よ、目の見えない人よ」と呼びかけています。 アッシリア帝国に傷つけられ、バビロニア帝国により捕らえられ、自分たちの国も自分自身もどうしようもないと現実に諦めて、無気力に漂って失望、落胆しているイスラエルの民。 神がずっと告げ続けてきた約束、み言葉をないがしろにし、現実の目先の欲と打算、あるいは自らの身や立場や正しさを守るだけに注力し、神への信頼を忘れ切っているイスラエルの民。 厳しい叱責とともに、「主に向かって歌え 叫び声をあげよ」と、新しい契約が与えられると諦めることなく呼びかけられたけれども、神のみ心を知ろうともせず、み言葉に聴こうともしないイスラエルの民。 神の側からみれば、自分勝手な者であるはずのイスラエルの民に向けて、今置かれている厳しい逆境、バビロンでの囚われの身、イスラエルの国の崩壊、これもまた神による因果応報ではない。 み心によるもの、神から授けられる務めを果たすためのひとつの過程に過ぎない。 「イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。 わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた。」忍耐に忍耐を重ねてきたがこの切迫した現状に、「今」わたしは決断した。 「目の見えない人を導いて知らない道を行かせる。 通ったことのない道を歩かせる。 行く手の闇を光に変える。 曲がった道をまっすぐにする。」と言うのです。 人知では到底考えも及ばない方法で、彼らの絶望的な状況を憐れんで癒す。 そして、神のもとへ戻って行く道を惑わし、気づかせないようにするこの世の「偶像」に依り頼む者、人間が造り上げたものを神に取って替える者は恥を受けて退くことになると言われているのです。
そのようなイスラエルの民を、主は「わたしの僕、わたしが遣わす者、主の僕」と呼びかけるのです。 見るには見るが、聞くには聞くが、その意味や背後にある神のみ心を悟ることができないイスラエルの民に、これらの逆境を起こされたのは「主ではないか。 このお方にわたしたちは罪を犯したのではないか。」とイザヤは訴えるのです。 「しかし、あなたがたを創造された主は、あなたがたを造られた主は、今こう言われる。」と言い、あなたがたを造り上げた主、命の所有者である主がその命に対する責任を果たす。 そのお方が、あなたがたの不信仰のゆえにこのような逆境に置かれた。 かつての出エジプト、アッシリアやバビロニアの征服の痛みを思い出してみよ。 どれほど破れに破れても、そうさせておられるのは意図をもって隠れて働いておられる主である。 「恐れるな。 わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの。」だからである。 どのような所でも、どのような時にも、「わたしはあなたの名を呼ぶ。」と主は励ますのです。 代価を払って買い取るという「贖う」ということは、状況が回復されるということだけではなく、神なしに生きていくようにと誘い、惑わし、縛り付ける肉なる体との戦いから解放されるということです。 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛する。」と言われるのです。 そして主は、東から、西から、北から、南から、地の果てから、私の民を集める。 このイザヤ書の預言を味わい、新約聖書の時代に主イエスの贖いによって主の救いの業が完成されたことを、霊なる力によって目覚めさせられたのです。 私たちは自分の存在価値を、自分自身の中に見出そうとします。 何か新たに得ることに奔走するのです。 自分が勝ち取った刻々と移り変わるものではなく、すでに主から与えられているものを見出し感謝して、それを用いることによって初めて自分の存在が示されるのではないでしょうか。 自分にないものを手に入れようとするのではなく、主によって備えられているものをありのまま差し出して、主のために用いるところで、本当の意味や価値があることを味わうのです。