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「モーセの三つのとりなしの祈り」 出エジプト記33章18~23節

2025-08-24

 シナイ山で張るようにと主に命じられた「臨在の幕屋」とは、モーセと神が交わるところ、人々がモーセを通して主に出会うところということです。 モーセがこの幕屋に入ると、「雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセに語られた。」とあります。 そこでは、「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」のです。 この幕屋が人々の宿営の中にあるということは、民の只中に主がおられるということの約束です。 やがて約束の地カナンに到着し、定住して後にそれがエルサレムの神殿となり、主イエスが十字架に架けられて復活なさってからは、その復活の主が私たちの中に宿り、それが神の神殿となると聖書は語るのです。 この「臨在の幕屋」を自身の内に宿していなければ、神との交わりを保つことはできないのです。 第33章の最初のモーセの「とりなしの祈り」は、モーセがシナイ山からなかなか降りてこない不安から、イスラエルの民が「金の子牛」の偶像を造り上げ、不信仰な姿を表わし、神との契約が無効になってしまった際の祈りです。 「あなたはわたしに、この民を率いて上れと言われました。 しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。 もし、あなたがわたしに御好意を示してくださるのなら、あなたの道を示してください。 この国民があなたの民であることも目にお留めください。」というものでした。 この祈りに、主が「わたし自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と答えられても、モーセは引き下がりません。 二つ目の「とりなしの祈り」です。 「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。 あなたがわたしたちと共に行ってくださることによって初めて、あなたがわたしとあなたの民に御好意を示していることが分かるでしょう。」と訴えます。 この祈りにも主は、「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。 わたしはあなたに好意を示し、あなたを選んだからである。」と答えてくださったのに、モーセは満足することなく迫った三つ目の「とりなしの祈り」が、「どうか、あなたの栄光をお示しください。」という祈りでした。 神の直接的な輝き、その姿を見せてくださいと迫る、驚くべき神に対する要求です。 これに対し主は、「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせる。 あなたの前に主という名を宣言する。」と答え、「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」と、神ご自身の恵みの主権を宣言され、「たとえモーセであっても、あなたはわたしの顔を見ることは許されていない。」と答えるのでした。 神は霊であるから、私たちの肉眼で捉えることはできません。 神は、不義なる人間をたちまちのうちに焼き尽くす、この世のものとは全く異なる存在でしょう。 しかし、主は「わたしの栄光が通り過ぎるとき、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。 わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」と言われるのです。 「神の顔」とは、様々な形で表される神の輝き、神の臨在のことでしょう。 「神の後ろを見る」とは、神の本質を見極めることはできないが、神の御業やご性質による直接の輝きを味わうことではないでしょうか。 「神に近づきなさい。 そうすれば、神は近づいてくださいます。」(ヤコブ4:8)と言います。 神の前に出れば、罪も過ちも弱さもすべて顕わにされます。 それでも、モーセは民とともに神のみ前に出ようとするのです。 モーセにとって「神を見る」とは、神の善い賜物を味わい、指し示されたご性質を知ることなのではないでしょうか。 「モーセの前を通り過ぎるわたし」とは、語りかける神のことでしょう。 神の栄光を、モーセは目で見、耳で聞き神を味わい知るのです。 主イエスもまた、「永遠の命とは、神を知ること、神がお遣わしになった主イエスを知ること」だと、天を仰いで祈っておられるのです。



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