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「ふたりはひとりにまさる」 コヘレトの言葉4章9~12節

2025-08-03

 「すべては空しい」という言葉で始まる「コヘレトの言葉」は、この世の不条理や矛盾あるいはこの世の「悪」にどのように対処すべきかという道徳的な視点を感じますが、むしろ、ひとりひとりに与えられた人生の目的は何か、生かされている意味はどこにあるのかという問いを探求している視点を強く感じます。 ルターは、コヘレトは「隠された神のもとで人生の大いなる謎の前に無力に立ちつくす人間である。 人生の意味への深いこの疑いは、コヘレトのような理性の立場からは答えられない。 しかし、このようなごく自然な人間の絶望は、福音の光に照らされる時、克服される。 『コヘレトの言葉』はキリストへの道を備える書である。」と、旧約聖書から新約聖書への橋渡しとして評価し「慰めの書」と呼ぶのです。 「改めて、太陽の下に空しいことがあるのを見た。」と断じて、その説明のために「ひとりの男」の姿を持ち出します。 社会の中の孤独なひとりの存在を象徴します。 動機はどうであれ、仲間との交わりを捨てひとりで生きていこうとしている姿、「富」のために飽くことのなく労苦している姿であると言います。 本来、生かされていくために備えられたに過ぎない「富」を、自身の人生の目的と化してしまった姿です。 この姿を「空しく、不幸なことだ。」と断じて、いったい「だれのために労苦するのか」と問いかけるのです。 「ひとりよりもふたりが良い」と、社会の中の仲間との交わり、主イエスにある交わりに生きるようにと勧めるのです。 主イエスは、神と人との交わりを取り戻すためにこの世に遣わされてきたのです。 この世を裁くためではなく、この世が救われるために遣わされてきたのです。 主イエスに結ばれた者どうしの間にある隔てを取り除くために、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と新しい戒めを与えてくださったのです。 私たちは創造の初めより、人を必要とする存在、主にある人と人との交わりの中に生かされる存在として創られたのです。 分かち合える者を必要としているのです。 人生を旅になぞらえ、旅をしながら労苦を共にする仲間との生活を念頭に、「共に労苦すればその報いは良い。」と言います。 天地創造の際の「耕す」という労働は「仕える」という意味の言葉が用いられており、本来の労働は神から与えられた地を耕すこと、その置かれた地に仕えるということなのです。 「善いサマリア人」のたとえでは、主イエスは「追いはぎに襲われ、半殺しの目にあった人の隣人にだれがなったと思うか」と尋ねられたのです。 隣人になったのは、触りたくないものに近づいて行ったサマリア人です。 主イエスは、私たち罪人の中に自ら飛び込んで来てくださったのです。 「真の仲間」とは、「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす」、この変わらぬ愛を仲間に求めるのです。 残念ながら持ち合わせていないもので、主イエスを通して注がれるご愛によらなければならないのです。 「寒い夜に野宿するときも互いに暖まれる」存在でしょう。 諺にも「喜びは分ち合えば倍になり、悲しみは半分になる」と言うではありませんか。 旅の途中、襲って来る強盗たちにも、ふたりなら立ち向かえると言うのです。 そして、「三つよりの糸は切れにくい」とまで言われる。 これは「三本の矢」ということ、二人よりも三人ということでもなく、主に結ばれている者どうしの交わりに、「二人または三人、わたしの名によって集まるところにわたしはいる」と待っておられる主イエスに結ばれた三つよりの糸ということではないでしょうか。 救い主イエスの登場の前準備として響いてきます。 私たちの弱さも違いも越えて、救われる道がすでに開かれているのです。 弱さも、違いも、神の恵みに気づかせる出発点であるように思わされます。 パウロはそれを神の御前に曝け出して、その弱さを用いられて、「その弱さで十分である」と主イエスに言われたのです。



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