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「神の畑、神の建物」 コリントの信徒への手紙一3章1~9節

2025-07-20

「神に用いられる器」とは、神に必要とされている人ということでしょう。 私たちは、主イエスに出会って、主イエスに結ばせていただいた者です。 「キリストのからだ」であるからこそ、果たすべき役割は大なり小なりそれぞれにふさわしくあるはずです。 与えられた役割が果たされなければ「キリストのからだ」全体、キリストを通しての神のみ心が果たし得ないことになるのです。 「神に用いられる」とは、自らが「キリストのからだ」の一部であることに気づかされ、自分に備えられた恵みを受け取って従順に用いて、感謝してその御心に委ねて従っていくということではないでしょうか。 パウロがコリントの教会の人々に、「兄弟たち、キリストとの関係においては乳飲み子である人々」と呼びかけています。 パウロは2年足らずでコリントの教会を立ち上げ、その後を弟子のアポロに託して、エフェソに移ったのです。 アポロは雄弁で、聖書に精通し、説教で多くの人々を魅了し、外見も立派であったと言います。 一方、パウロは朴訥で、説教は分かりづらく、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と表現されています。 アポロに惹きつけられた人々は、アポロを指導者として新しい歩みを望んだ。 一方、創設者であるパウロから直々に教えを受け導かれた人々は、新しいアポロの動きに反発をしたと言います。 これが、コリントの教会内部の争いです。 パウロは、「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる。」と言います。 パウロの言う「肉の人、ただの人」とは、キリストの十字架の贖いのみ業に立つことなく、いつまで経っても自分という存在に囚われている人のことです。 一方、「霊の人」とは、キリストの十字架に贖われ、自分という存在が神のものとなっている人、自らの拠り所をキリストの十字架の贖いに置いて、その恵みに生かされている人のことです。 パウロは終始、「十字架に架けられたキリスト」(2:2)だけを宣べ伝えてきたと言います。 神のみ言葉の方に違いがあるのではなく、聴く側の状態によって「乳を飲むようなもの」になったり、「固い食物を噛み砕くようなもの」になる。 この十字架の救いを受け止めるには、どうしても霊の働きが必要になるのです。 「わたしたちはキリストのからだであり、アポロも、パウロも、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。 パウロは植え、アポロは水を注いだ。 しかし、成長してくださったのは、神なのです。」 パウロは、私たちは「神の畑」であると言います。 蒔かれる種はみ言葉です。 それが実り、育っていく畑が私たちだと言うのです。 実を結んでいくのは、蒔かれた神のみ言葉です。 あくまでも大切なものは神の働きです。 私たちが用いられて、神の恵みの業が映し出されることなのです。 もうひとつパウロは、私たちが「神の建物」だと言います。 私たちは「キリストのからだ」の一部分です。 一人一人が立派になり、建物全体が成長するのではない。 一つ一つの結びつき、交わりを壊してはならないのです。 主によって集められた群れ全体の益を目指しているのです。 この全体を築き上げるのは、神ご自身です。 私たちは神が蒔いてくださる畑、神が築いてくださっている建物に組み込まれた部分です。 十字架を背負ってくださったキリストを指し示すこと、蒔かれた福音の種を受け止め聴き続けること、自分を顧みるのではなく十字架の上で罪を贖ってくださっているキリストを仰ぎ見ることです。 これらのことを邪魔するのが「自我」、「肉の思い」です。 自分自身から解放されること、神のみ前に進み出て砕いていただくことです。 神は用いられるのは、この「砕かれた魂」(詩編51:19)なのです。 「わたしの神」から「神のためのわたし」へと変えて頂きましょう。 



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