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「神の前と人の前」 コリントの信徒への手紙二5章11~17節

2025-07-06

 パウロは、「内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供している。」と言います。 「外面を誇っている人々」に対して、「内面を誇っているわたしたち」のもとに呼び戻そうとパウロはするのです。 「神の並外れて偉大な力、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光、このような宝物を土の器に納めている。」(4:6-7)と言います。 その「宝」の中味を説明や教えや解釈によってではなく、コリントの教会の人々に対するパウロ自身の在り方、生き方によって、もっと突き詰めれば、そのパウロを突き動かしているキリストのご愛について語るのです。 最初に、「主に対する畏れに生きること」だと言います。 この「畏れ」とは、恐れおののくことではありません。 旧約聖書の時代では、「神を畏れる」ことは信仰の中心、知恵の初めでした。 パウロは、「わたしたちは、神にはありのままに知られています。」と言い、私たちを熟知しておられる神のみ前に立つこと。 その神が遣わした主イエスがすべて引き受け、背負ってくださった神の裁き、主イエスの十字架の前に立つこと。 そこまでしてくださった神の恵みのみ前に立ち味わうこと。 この「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(エフェソ:21) パウロはかつての自分自身の姿を思い浮かべながら、この神への畏れを失った者が、罪と死に縛られている存在であると言うのです。 更に、「外面を誇っている人々に応じられるように」と「内面に生きる」ことを求めます。 私たちはどうしても外面的なものに左右されます。 主イエスは、「ファリサイ派の人の祈り」と「徴税人の祈り」を示して、神の目に留まったのは「徴税人の祈り」だと言います。 「ファリサイ派の人」とは、社会的に申し分のない立派な人、自分は正しいと豪語し他人を見下している人のことでしょう。 「徴税人」とは、内面までもありのまま曝け出して、「神の前に立つ人」のことでしょう。 真の誇りを偽りの誇りに替えて、心の中に宿すように。 「土の器」を誇るのではなく、土の器に納められた「宝」を誇るように。 その「宝」を自分のためではなく、「土の器」を通して神の民をつくり上げるため、キリストのからだを築くために用いるようにと言うのです。 人々も、愛する弟子たちも、「肉に従ってキリストを知ろう」とし、目に見える結果に失望し離散したのです。 パウロも同じでしたが、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という、目に見えるところによれば処刑されたはずのイエスが復活して生きて呼びかけている。 この声を聴いたパウロは地面に倒れ、目が見えなくなって、キリスト教徒のアナニアに助けられるのです。 コリントの教会の人々に対し説明することのできないこのパウロの体験を、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているから」だと言い、「わたしはありのままに知られたいと思います。」と、自分自身の生き方、在り方によって、復活の主イエスと共に知られたい、この「キリストの愛から、だれがわたしたちを引き離すことができましょう。」と、キリストのために生きる、愛する人のために生きる、もっと多くの人のために生きる、そして神から「宝」を授けられた自分自身のためにも生かされるよう、この一筋の道を歩み通す為にも人と神とに仕えていくことを勧めるのです。 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」、キリストを通して注がれてくる「新しい命」を受け取って味わっている人である。 滅びに向かっていた人が滅びに向かっている人に呼びかけ、それぞれの人に合わせて復活の主と共に神のもとへ帰るようにと促す人に変えられていくのです。 「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」のです。 神とキリストとの関係がまったく変えられる時、この地上の生活を共に送っていく人との関係もまた、必ず根底から変えられていくのです。 



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