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「高い天から注がれる神の霊」 イザヤ書32章15~20節

2025-06-08

 イザヤ書の28章から35章までに「災いだ」という言葉で語られている「六つの災いの宣告」が語られています。 六つもの災いがあるがゆえに、「ついに」、今までの裁きを終えた後に起こされる主なる神の「救い」と「変革」をイザヤは語り始めるのです。 第32章の冒頭の1節から8節に少し目を留めます。 「一人の王が正義によって統治する。」 「高官たちは公平をもって支配する。」と言います。 ここで言う「一人の王」とは、正義の裁きと憐れみと恵みを兼ね備えたメシア、イエス・キリストでしょう。 旧約聖書によって延々と書き記し、伝え続けられてきたみ言葉が、イエス・キリストによって成し遂げられ、「神のものとなった民、イエス・キリストのからだとなった民」、新しい神の民が生まれると信仰告白をするのです。 ひとりのメシアが統治する。 そのメシアの贖いを受けた者たちが統治するようになる。 「ついに、今や、そのとき」が訪れたと賛美し、礼拝をささげているのです。 「風を遮り、雨を避ける所のように」、「水のない地を流れる水路のように」、「乾ききった地の大きな岩陰のように」なるという外的な変化に留まらず、内面的、霊的な変化が人間の心の中に訪れる。 「見る者の目は曇らされず 聞く者の耳は良く聞き分ける。 軽率な心も知ることを学び どもる舌も速やかに語る。」ようになる。 愚かな者が愚かなことを語っていても、神を無視して、主について迷わすことを語っていても、ならず者が謀り事をめぐらし災いをもたらしても、見極めることができなかった。 それらを見事に見極めることができるようになる。 この世における評価がまったく覆される。 そのメシアによる変革と逆転は、救いの実現に向かっているときではなく、むしろ破滅へと裁きの実現へと向かっている厳しい現実の中にこそ訪れると語るのです。 15節に「ついに、我々の上に霊が注がれる。」と言います。 「恵みを与えようと待っていた主なる神が、ついに憐れみを与えようと立ち上がられる。」 神の霊によって、神ご自身の意図をもってご自身のみ心を果たすために事を起こされる。 そのことを、「高い天から注がれる」と言うのです。 その変革は、私たちがうごめく世界の中からではなく、この世の私たちの思惑や計画によって起こされるものではない。 神の側から私たちのところへ下ってくる神の霊による力、意志によって果たされることである。 今、イスラエルの民が味わっている荒廃と滅亡の惨憺たる現実、自己解決の道が全く閉ざされてしまっている状態。 そこに救いと恵みの時が訪れる。 これは、私たち神の民の群れの中から、神の民の決意と決断によってもたらされるものではなく、神ご自身がご自身の民を用いて、天からの裁きとして、また、憐れみと恵みとしてご自身の民に与えてくださるものであると言うのです。 「高い天から神の霊が注がれるなら、すべてが変わる。」と言います。 「荒れ野は園となり 園は森となる。」という外的な変化、「荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。」霊的な変化が起こされる。 聖書の言う「義」とは、神との関係、交わりの事です。 「正義」とは、神との正しい関係、交わりということです。 神とのあるべき関係、神に対する信頼を取り戻すということです。 この世のものさしに縛られ、見失っていた神のものさしを取り戻すことです。 神の言う「災いだ」と言われる姿を直視しなければ、真の神の憐れみと恵みを味わい知ることが 残念ながらできないのです。 その「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である。」と、主イエスが遣わされる何百年も前に主なる神が約束されているのです。 「安らかな信頼」とは、厳しい体験を通して味わった神への信頼と確信です。 そこで、主イエスは「平和の住みか」、「安らかな宿」、「憂いなき休息の場所」を読み取って、エルサレムの十字架の場所に自ら進んで行かれたのです。



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