「生ける神の神殿、わたしの軛」 コリントの信徒への手紙二6章11~16節
パウロはキリストの福音を宣べ伝える務めを書き綴り、その締めくくりとして「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」と語るのです。 パウロほど、福音を宣べ伝える恵みを味わった人はいないし、福音を宣べ伝えるがゆえに苦痛極まりない惨めさを味わった人はいないのではないでしょうか。 その体験を、「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」といった言葉で表現しています。 パウロも、自身の愛と労苦によって生まれたコリントの教会の人々から言われなき非難、中傷を浴び、傷つきもしていたのです。 筆舌に尽くしがたい出来事を経て、その関係の修復にあたり「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」と呼びかけるのです。 パウロは、自分自身の生き様を通して注がれた神さまの恵みを最終ゴールとしていません。 その結果が重要ではなく、その過程において味わった主イエスとの出会いと交わり、主イエスご自身が心の内に宿り引き起こされた変化こそ、神さまの恵み、祝福だと言うのです。 私たちに起こる出来事が、その受け取り方によって「幸い」にもなるし、「災い」にもなるということです。 栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにも、真理の言葉と神の力によって、義の武器を左右の手にもって、自身の大いなる忍耐をもって主イエスによって与えられた務めを果たしてきたと、ありのままの姿でその弱さも含めてさらけ出して主イエスの恵みを証しするのです。 パウロ自身も攻撃を受け、傷つけられ、自己の弁明もしたくなるでしょう。 しかし、パウロは「コリントの人たち」となおも諦めずに呼びかけ、「あなたがたに率直に語り、心を広く開きました。」と言うのです。 かつての自分と同じコリントの教会の人々の姿を受け入れ、自分に注がれた同じものが芽生え、呼び起こされるようにと祈るのです。 自分自身と同じように、コリントの教会の人たちの贖いのためにも主イエスは死んでくださったはずであると、願いを込めて「子供たちに語るように、率直に語り、心を開く」のでした。 二つ目の勧告としてパウロは、「信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。」と言います。 「軛」とは、牛やろばなどの首につける横木のことです。 性質の異なる動物を一緒に組み合わせて「軛」に付けると、うまく耕すことができません。 当時の「コリント人」とは、「みだらな人」というレッテルまで張られていた道徳的にも、宗教的にも退廃していた町にパウロは足を踏み入れ、キリストの福音を宣べ伝え、ヨーロッパの有力な教会の礎を築いたのです。 この勧告は、この世との関係を一切断ち切って、この世との分離を促しているのではありません。 キリスト者とは、イエス・キリストを救い主と受け入れ、信じて生かされていく者でしょう。 イエス・キリストを知らず、受け入れず、神のもとから離れてしまっているこの世において、その証し人となる務めを与えられた者です。 むしろ、誤りだらけの、闇の真っ只中と言わざるを得ないこの世においてこそ、しっかりと証し人として生きるべきです。 神によって用いられる存在として生かされるべきです。 主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。 わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28)と言われているのです。 「正義と不法、光と闇、信仰と不信仰とは、何のつながりがありますか。」と迫ります。 最後に「神の神殿と偶像」を対比して、信仰と不信仰に直結する「礼拝」の姿を迫っているのです。 キリスト者こそ、主なる神が住まう神殿である。 神と出会って、神と共に歩む、この世と一線を画した生活、それが私たちのささげる「礼拝の姿」なのではないでしょうか。