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「主のもとへ帰るという礼拝の姿」 フィリピの信徒への手紙3章17節~4章1節

2025-06-29

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」とパウロは言います。 なぜそのようなことを語らなければならないかと言いますと、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」からだと言うのです。 本来フィリピの教会の人たちに向けての手紙であるはずです。 主イエスの十字架を信じていない人たちに対してではなく、実際の信仰の生活において、主イエスの十字架に支えられて生かされているかどうか。 主イエスを通して表された神の恵みと赦しを受け取ることなく、自分たちにはかかわりのないこととする者が多いと涙ながらにパウロは語るのです。 このパウロの言葉は、自分自身を誇っているのではありません。 主イエスによって与えられた自分の中にある恵みを、同じように宿すことを願うパウロの祈りです。 パウロが指し示しているのは、パウロ自身のことでも、人間の模範の姿でもない。 「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と、パウロの中に宿っている主イエスご自身を指し示すのです。 十字架によって生かされる、神の恵みのみによって生かされるという恵みから離れてしまって、自分の力や努力、自分の理解や行いを少しでも混ぜて十字架の救いの恵みを薄めていく。 神の力や知恵は、人間の力や知恵をはるかに凌ぐ。 「万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。」と言うのです。 私たちは自分を誇っている限り、どうしても十字架がその人の躓きとなり、必要としなくなる。 しかし、十字架に示された真の神の恵みとご愛を受け入れるためには、この十字架を受け入れる必要があるのです。 十字架には、神の裁きと共に、神のご愛が凝縮されているのです。 「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(コリント一1:31)と語っているとおりです。 パウロは「彼らの行き着くところは滅びです。」とまで言います。 十字架による救いがないとするなら、他に救いの道はない。 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」と言うのです。 私たちは残念ながら、最後の詰まるところのことではなく、今どうなるのかということだけに終始してしまう。 パウロはその「行き着くところ」に、フィリピの教会の人たちの目を向けさせるのです。 「彼らは人間の欲望とでも言うべき腹を神とし、恥ずべきもの、神ならぬものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」 だから、神との正しい関係を取り戻すこと、神のみ前での生活を最後まで続け通すことを勧めるのです。 「わたしたちの本国は天にあります。」と、「あなたがたはキリストと共に復活させられた」という違いがあると語るのです。 自分を、あるいは自分の造り上げたものを愛してしまっていては、神を知ることはいつまで経ってもできない。 主イエスとの交わりを回復していただき、主イエスと共にある人々との交わりに加えていただかなければ分からないのです。 実際の信仰生活において、パウロは「主イエスが救い主として来られるのを待っています。」 主ご自身が救いの完成として神の恵みに満たされて生活を送れるよう自ら来られる。 その結果、「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。」と言います。 やがて朽ち行く人間に、朽ちない生活ができる道を与えてくださった。 このことを、「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」と呼びかけ、「主によってしっかりと立ちなさい。」と、キリストと共に、キリストによって生かされなさいとパウロは、この世と一線を画した「礼拝の姿」を求めているのではないでしょうか。



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