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「神の国を受け入れる人」 ルカによる福音書18章15~23節

2025-05-04

 主イエスの最後の死出の旅とも言うべきエルサレムへの旅の終盤、ご自身の死と復活の三度目の予告の直前の二つの出会いがルカによる福音書に記されています。 当時のユダヤ社会では、様々な「しるし」を引き起こす人物には霊的な力がある、その人物に触れると霊的な祝福が注がれると人々に信じられていたのでしょう。 ありとあらゆる病いや患いをことごとく癒していたイエスの評判を聞いて、多くの人々がイエスのもとに集まったのです。 「イエスに触れていただくために、乳飲み子までも連れて来た。」と言います。 しかし、弟子たちはイエスの祝福を求めよる人々の姿を見て叱ったと言います。 エルサレムへの途中でイエスの手を煩わせてはならないと、思わずそのような言葉を発したのでしょう。 別の福音書によりますと、「イエスはこの弟子たちの姿を見て憤り、子供たちをわたしのところに来させなさい。 妨げてはならない。 神の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。 「神の国」とは具体的な場所を言うのではなく、神の恵みが覆いつくす状態を言うのでしょう。 イエスは「神の国は乳飲み子たちのものである」とは言われていない。 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ」と言うのです。 「乳飲み子たち」とは、ひとりでイエスのもとに来ることのできない、ただ世話を受けるだけの存在です。 ましてや、この世の戒めはおろか、律法の戒めを知らず、弁えず、守ることのできない存在です。 そうした存在を「来させなさい。 妨げてはならない。」と弟子たちに言われたのです。 弟子たちに対するイエスの「憤り」は、神の国にふさわしい存在であるのかどうかの判断を、自ら下していることに対する「憤り」でしょう。 神の国に入る資格について、私たち人間の介入を断じて赦さない、神の側に属する事柄であるというイエスの「宣言」でしょう。 自分が勝ち取った、築き上げた立派な姿で取り繕うこともせず、ありのままの姿を差し出して、イエスの説く神の恵みを受け入れなさいということでしょう。 これが神の国に入る「条件」だと言われているように響きます。 預言者イザヤは、「造られた者が造った者に言いうるのか。 陶器が陶器士に言いうるのか。」と迫ります。 使徒パウロもまた、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子です。 神の子とする霊を受けたのです。 この霊によってわたしたちは、父よと呼ぶのです。」と語り、神の賜物である霊を神の恵みとして受け取る必要を迫ります。 そこに、「大変な金持ちだった」と言う「ある議員」が登場します。 彼はイエスに「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねるのです。 「永遠の命を受け継ぐ」とは、「神の国に入ること」と同義語でしょう。 この議員の「善い先生」という呼びかけに、自身の評価が込められています。 質問をしている自身もまた「善い人間」として、これまで生きてきた自負を感じます。 イエスの言われた様々な戒めは、「子供の時から守ってきました」と胸を張り、そのうえで「何をすれば神の国に入れるでしょうか」と尋ねるのです。 何かをすることによって、自分が目指している姿に到達することによって神の国に入ろうとするのです。 その議員にイエスは、「あなたに欠けているものがまだひとつある」と言います。 神の国に入る資格は、私たち人間の側にあるのではない。 神の側の憐れみと恵みにあるということ、神の国に入る困難さを示すとともに、「人間にはできないことも、神にはできる。」と、イエスご自身に従うという一点に絞り語られたのではないでしょうか。 イエスは、私たちの努力やつくり上げるものを期待しておられるのではありません。 父なる神が期待して収穫すべきものを用意してくださって受け取ることを待っておられる。 神にしかできない救いの出来事が備えられていること、それを恵みとして受け取るようにと語っておられるのです。



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