「聖霊を受けなさいと言う復活の主」 ヨハネによる福音書20章19~23節
場面は、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」ところです。 自分たちが「メシア、救い主」として慕って、人生をささげて従ってきたイエスが、処刑されるという予想外の事態に直面した、その三日後のことです。 イエスはユダヤの国から「神を冒瀆する死罪判決」を、ローマ帝国から「反逆罪」で死刑を執行されたのです。 そのイエスの弟子たちに、身の危険が及ぶと判断してもおかしくはないでしょう。 自らが描いて来た希望が崩れ、生きる目的を失ってしまった状態でしょう。 一方で、命をかけ従ってきたイエスに対する背信の後悔もあったでしょう。 そこで、「イエスの遺体が墓から取り去られた。 どこに置かれているのか分からない」という驚くべき知らせを、マグダラのマリアより受けたのです。 弟子たちは急いで墓に行き、イエスの遺体がなくなっことを確認するも、「イエスは死者の中から復活されることになっている」という聖書のみ言葉を理解することはなかったのです。 墓の外に立って泣いていたマリアに、復活の主が呼びかけるのです。 そこで初めて、それがイエスであることに気づいたマリアに、復活の主イエスは「わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る。」 父なる神のもとへ至る唯一の道であると言われたイエスは、「わたしの兄弟たちのところへ行って、伝えなさい」とマリアに言うのでした。 しかし、イエスから「わたしの兄弟たち」と言われた弟子たちの心は閉じられたまま、復活の主の存在を信じないままです。 イエスは、愛する弟子たちの混乱状態をご覧になって、想像を超えて強引に入って来られるお方です。 途方に暮れて佇んでいる彼らの「真ん中に立って」、十字架の肉体の傷と死、「手とわき腹をお見せになって」古いものから新しいものへ向かうようにと、赦しの宣言を伴って「今、ここに」共にいてくださることを示すために入り込んで来てくださったのです。 「弟子たちは、主を見て喜んだ」と言います。 自分自身を閉じ込めている一切の束縛から解放されて、新しい命に生きるように、備えられた「父なる神のもとへ至る道」を見つけ出すようにと、呼びかけてくださっているのです。 十字架の傷跡が刻まれた主イエスが、変わらずいつも通り呼びかけ、自分たちの深い心の傷を癒してくださった「悲しみから喜びに変えられる体験」が、新たに主イエスの赦しと解放、平和と安息を再び呼び起こし、弟子たちの深い傷と痛みを癒したのではないでしょうか。 ヨハネによる福音書は、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14:26)と言います。 復活の主としてイエスは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われ、息を弟子たちに吹きかけられて、「聖霊を受けなさい」と言われたのです。 小さな群れに聖霊が吹きかけられるペンテコステの出来事の先取りです。 更にイエスは、「わたしが父のうちにおり、あなたがたがわたしのうちにおり、わたしもあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かる。」(14:2) 「わたしと父とはひとつである。」(10:30)と言われ、十字架の主、復活の主に出会うというこの体験の事実が、神との交わりの回復、イエスご自身を通しての人と人との新しい交わりを創造することをつけ加えておられるのです。 この聖霊の働きによって、父なる神のもとにあったキリスト、生前のキリスト、十字架のキリスト、復活のキリスト、そして私たちのうちに宿るキリストが、違いを越えて「全体としてひとつなるキリスト」が、「今、ここに」現れ出て、それがひとつの体となっていく。 それぞれに宿る内なるキリストが折り重なって、一つの体と紡ぎ合わせられていくことになる。 「違いがありつつ、ひとつ」のイエスの体が、小さな群れに築き上げられていくのです。