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「主なる神の正しさと人の正しさ」 創世記4章1~16節

2025-04-06

 主なる神は人間を土の塵で形づくり、その鼻に命の息を吹き入れ生きる者とされた。 「地に満ちて地を従わせよ。 生き物すべてを支配せよ。」と命じ、エデンの園を設けそこに人を置かれ、「そこを耕し、守るようにされた。」 更に、「園のすべての木から取って食べなさい。 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。 食べると必ず死んでしまう。」と命じられたと言います。 「これを食べると、神のように善と悪を知るようになる」という蛇の誘惑により、最初の女と男は神の命令に反し食べてしまった。 すると、自分たちが裸であることに気づき、神の呼びかけに隠れ言い訳を言い始めた。 それをご覧になった主なる神は、彼らをエデンの園から追放されたのです。 追放された二人が最初になした出来事が、今朝の聖書箇所です。 「新しい命を産んだ」という命の創造の業を、エバは「わたしは主によって男子を得た」と言います。 蛇の誘惑に乗って禁断の実を食べ、その過ちを神に赦しを乞うことなく、身を隠した人の言葉とすれば、新たな命を生み出すという神のような力を持ち得たのではないかと、その業に自分が用いられた自負と喜びが含まれているのかもしれません。 その子どもの「兄カインは土を耕す者となった。 弟アベルは羊を飼う者となった。」 どちらも、自分たちの働きを守り、祝福してくださった神に感謝の献げ物をささげるのです。 兄カインは土の実りをささげた。 弟アベルは羊の群れから肥えた初子をささげた。 問題は、主が弟アベルの献げ物には目を留められたが、兄カインの献げ物には目を留められなかったことです。 その理由はここに語られていません。 この神の選択をあれこれと私たちは詮索します。 人間的にみれば、不公平、不平等、不条理と思われる現実を多々目にします。 しかし主は、その違いの理由を探ることよりも、人が納得できないような現実があることを踏まえ、それをどう受け止めていくのか神のみ心を尋ね求めるようにと、「どうして怒るのか。 どうして顔を伏せるのか。」と迫り、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。 正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せてお前を求めている。」と、カインの応答を待ったのです。 「もし、自分の正しさに拘り続けるなら、戸口で待ち伏せているものに縛られてしまう」と、み前に進み出てくることを促しておられるのです。 兄カインは神の語りかけを無視し、弟アベルに屈折した怒りをぶつけます。 一方、理由なく殺されてしまった弟アベルの叫びを神が、「弟の血が土の中から叫んでいる」と代弁します。 その理由に対し、神は沈黙です。 「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた主イエスの十字架上での叫びを思い起こします。 私たちは、理由の分からない神のみ心、神の正しさがあることも、それを知り尽くすことなどできないことも知らなければならない。 むしろ、そうした厳然たる事実をどのように受け止めていくのかを、その事実を起こしておられる主なる神に尋ね求めなければならない。 顔を伏せず、呼びかけを無視せず、応えなければならない。 神のみ心、正しさ、ご愛は、イエスの十字架のご愛を味わうことによってしか知り得ないものなのです。 十字架を避けて、顔を上げず、応えず歩むところでは、主イエスに出会うことも交わることもできない。 十字架の主イエスのみ前に立たなければ、主なる神のご愛、正しさ、御心を知ることはできないのです。 主なる神は、いつでも手に取って食べることのできるところに、食べてはならない木を置いて、食べてはならない理由を告げず、それを食べてはならないと命じられる。 神さまはご自身のご愛、正しさ、み心をそれぞれにふさわしく示すために、ご自身との交わりを強く求めておられるのです。 「地上をさまよい、さすらう者となる」と言われたカインにも諦めず、神は「しるし」を着けて守られているのです。



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