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「主イエスと共にする食卓」 ヨハネによる福音書12章1~11節

2025-03-09

 「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた」頃のことです。 「過越祭」とは、年一回、BC13世紀ころ、エジプト王ファラオの奴隷として苦役に従事させられていたイスラエルの民を、神はモーセという指導者を選び、イスラエルの民を引き連れてエジプトから脱出させた。 そしてシナイ山で十戒を与えて彼らを神の民とし、信仰の祖アブラハムに対し「約束された地」カナンに導き帰してくださった、その救いの出来事を忘れないよう心に刻むために行っていた祭りです。 脱出の前夜、「小羊を屠って、その血を家の鴨居に塗り、室内では種入れぬパンを苦菜と一緒に食べることを、神はご自身の民に命じられたのです。 鴨居に塗られた小羊の血がしるしとなって、「死の使い」がその家を通り過ぎる。 しかし、血が塗られていないエジプト人の家には、「死の使い」が入り込み、その家の初子が死んだと言う。 裁きと救いの両面があるように、新しい生に生きる者と古い生に死ぬ者を分かつ「小羊の血」がそこにある。 イエスご自身もまた、流される血を贖いのしるしとしてささげ、信仰によって生かされる人間を新たに創造するために遣わされてきたのです。 「過越祭」を前にして、世の罪と死に縛られているすべての人を解放し、神の子として新しく生かすために来られたご自身の姿をもって感じ取られていたのでしょう。 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と、初めてイエスを見た途端、バプテスマのヨハネが発した言葉はこのことを象徴させるのです。 「過越祭の六日前」、イエスがいよいよ十字架に磔にされ、殺されるその時が近づいている。 多くの人々は、イエスを大歓迎する。 一方、祭司長たちやファリサイ派の人々は、「イエスの居所が分かれば届け出よと命令を出していた。」 様々な思いが入り混じる中、「過越祭の六日前」、神の安息と祝福に与るようにとそれぞれの家庭で賛美し、礼拝し、神が与えてくださった食べ物を分ち合う光景があったのです。 そこには、復活のしるしとしてのラザロ、イエスによって新たな信仰へと導かれたマルタとマリア、神がこの世に遣わし死者の中から復活させることになっているイエスがおられるのです。 一方、イエスを銀貨30枚で裏切ったユダもいた。 ラザロもイエスも捕らえて殺そうとした祭司長たちもいた。 いずれイエスのもとを離れてしまう弟子たちもいたのです。 そこでマリアは、驚くべきふるまいを取るのです。 純粋で高価なナルドの香油をもってイエスの足に塗り、自分の髪の毛でイエスの足を拭ったと言います。 油を塗るというのは、客人をもてなすということもあったでしょう。 聖別のために油を注ぐことも不思議ではなかったでしょう。 しかし、イエスは「この人のするままにさせておきなさい。 わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と言われた。 「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は死んでも生きる。 このことを信じるか。」とイエスにマルタは言われて、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子であると信じます」と信仰告白したように、マリアもまた無言のふるまいとして、すべての人間が支配されている罪と死を取り除くためにささげられる贖いの小羊として血を流すことになると、本当の意味でイエスをメシアであると信じる無言の信仰を告白したのではないでしょうか。 信仰をもって生きるとは、実は人間の罪の深さを知ることになるのです。 そうした只中にあって、マルタに給仕され、マリアに愛されているイエスがすべての人を客人として「共にする食卓」においてもてなしておられるのです。 「その家は香油の香りでいっぱいになった」と言います。 入り混じる只中で、神が喜んで受けてくださる香ばしい香りをささげているのです。 「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」とイエスに言われるほどの「香ばしい香り」をささげたいものです。



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