秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「もしここにいてくださいましたら」 ヨハネによる福音書11章17~27節

2025-02-02

 「ラザロの復活」は、イエスが起こされた七つの「しるし」の最後の「しるし」です。 ここまでの「しるし」によって人々の示した「見て信じる信仰」を越えて、「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。 神の子がそれによって栄光を受ける。」ものであることを、ご自身の時を待って起こされた「しるし」なのです。 これらの「しるし」の働きの目的は、その働きに与った者、その働きを目撃した者が、その働きを通して変えられて、「イエスを神の子である。 神のもとから遣わされた救い主である。」と信じること、変えられて新しい命に生きることにあったのです。 ヨハネによる福音書の冒頭のみ言葉は、「言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と始まって、最後にこの福音書が書かれた目的は、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20:31)とはっきりと締めくくるのです。 この「しるし」を引き起こしたイエスに出会うその時、私たちはイエスに対する信仰を告白せざる得なくなる。 変えられて新しい命に生かされる者となるために、イエスはその時を待って、その集大成として「ラザロの復活」という「しるし」を果たされたのです。 ラザロの死体が横たわる墓にイエスが向かうことこそ、イエスが十字架に向かうこと、復活の命に与ること、そして父なる神のもとへ帰ることを指し示しているのではないでしょうか。
 イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に4日もたっていたと言います。 ラザロは死んでいたということです。 イエスは、「もう一度、ユダヤに行こう」と言われた。 この「行く」という言葉には、イエスの強い意志が刻まれた言葉が使われています。 14章に出てくる「心を騒がせるな。 神を信じなさい。 そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。 もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」と言われた時に使われた「行く」という言葉と同じ強い意志の言葉が使われているのです。 死ぬことを決断して選び取った言葉です。 このイエスの死は、死で終わるのではなく、復活を通して父なる神のもとに行くための死である。 イエスのご愛の中に死んだ者、眠っている者を、父なる神のもとで起こすための死であるのです。 マルタはイエスに会うや否や、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言います。 すぐにイエスがここに来なかったからラザロは死んでしまったとは言っていない。 「もしイエスが傍近く、共にいる」ならと、絶望的な悲しみの真っ只中においても、イエスに対するわずかな期待の表明に響きませんか。 イエスに出会い心情の変化を感じさせるマルタは、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と語ります。 そのマルタにイエスは、「あなたの兄弟は復活する」と断言した。 そして、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか。」と迫ったのです。 これにマルタは、「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」という信仰告白に導かれたのです。 肉体が生きているだけの存在が横たわる墓場に、命の息を吹き入れるためにイエスは時を待って、ふさわしい時に来てくださった。 十字架の死と復活と昇天を通して、神のもとへの道を切り開いてくださったのです。 罪と死に縛られない新しい命を与えてくださった「しるし」が、ラザロの復活ではなかったでしょうか。



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元