「つまずきの後に遣わされる者」 マタイによる福音書11章2~19節
バプテスマのヨハネと主イエスとの、ヨハネの弟子たちを通しての「対話」が記されています。 バプテスマのヨハネの宣教の働きと主イエスの宣教の働きを結びつけるかのように記しています。 そこには連続性があるようで、一方、古いものが寸断されて、新しいものが起こされた非連続性をも感じさせます。 バプテスマのヨハネの宣教の働きは、激しいものでした。 「悔い改めよ。 天の国は近づいた。」と語り、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川でバプテスマを受けた。」 そのヨハネの働きを耳にして、「イエスが、故郷ガリラヤから出て来て、ヨハネからバプテスマを受けるためにヨルダン川のヨハネのところに来られた。」と言うのです。 そのヨハネが今では、「牢の中にいる」と言う。 ヘロデ大王の子の妻ヘロディアの不倫を厳しく咎めたヨハネは、ヘロディアの策謀によって死海の東岸のマケロスの要塞に幽閉され、ついには首をはねられることになるのです。 ヨハネの弟子たちが、ヨハネの遺体を引き取り、葬り、イエスのところに行って報告したと言うのです。 そのことを聞いたイエスは、ガリラヤに退き、ヨハネと同じように、「悔い改めよ.天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められたのです。
ヨハネは牢の中で、自分がここから救い出されることを哀願するのではなく、「来るべき方は、あなたでしょうか。」という問いを、牢の中から自分の弟子たちを送ってイエスに尋ねるのです。 もはや牢の中から出ることができないと悟ったからなのか、かつてイエスに抱いていた思いが揺らいでいることに気づいたのか。 「来るべき方」とは、終わりの日にくると期待されていたメシアのことです。 宣教の言葉は同じであるにしても、宣教の根本的方向の違いを感じ始めたのでしょう。 イエスは、このヨハネの問いに直接答えることなく、事実だけを伝えようとするのです。 イエスは尋ね求める者に、本人が期待しているものを与えるのではなく、福音の事実だけを示してご自身を信じるのかどうか、質問者の決断を迫るのです。 イエスは、「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」と、人の言葉に先立つ、神の起こされた出来事の前に、空虚な飾られた言葉を沈黙させられるのです。 今度は、イエスが尋ね求めてきた者を遣わすのです。 ヨハネは、迫りくる「神の怒り、裁き」を目の前にして、悔い改めを迫る預言者でした。 自分が期待したメシアとしてのイエスにつまずいたのです。 イエスは福音の事実を伝え、この神の働きを自分のこととして受け取る以外に、メシアとしてのイエスに出会うことができないと言われているのです。 つまずく者とならないで、それらを乗り越えてイエスの到来によって福音の事実が実現していることを、イザヤの預言にはなかった「死者の生き返り」を新しく加えて告げるのでした。 「神の怒り、さばき」とは、神のもとを離れてしまった世界を取り戻そうとする忍耐のともなった決断なのです。 「災いだ、幸いだ」と言うのは、神の嘆きであり、喜びなのです。 そのうえで、「わたしにつまずかないものは幸いである」と言われているのです。 「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。 新しい神の恵みの世界が始まる宣言が、イエスの十字架と復活の事実によってこれから果たされる。 つまずかないでその変化をしっかり受け取るようにと言われるのです。 荒野で「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝えていたヨハネを「悪霊にとりつかれている」と揶揄し、社会からはみ出した人たちと食卓を囲むイエスを、「大食漢だ、大酒飲みだ、徴税人や罪人の仲間だ」とからかい、非難する人たちの時代は終わった。 福音の事実をしっかりと受け取り、喜び、感謝して、与えられている恵みに生かされる時代が始まったとイエスは言われるのです。