秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「神共にいますというしるし」 イザヤ書7章3~14節

2025-01-05

 イザヤが遺した「インマヌエル預言」が、新約聖書の時代にマタイによる福音書の中心的なメッセージとしてよみがえっていることに目を留めたい。 イザヤ書は当時の南ユダ王国の人々の姿を、「ぶどう畑」に譬えて、「わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。 よく耕して石を取り除き、良いぶどうを植えた。 その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。 しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。 わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。」と歌います。 ヨハネによる福音書(12:40)では、「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。 こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。」というイザヤが語るべき言葉は、神の厳しい御言葉であったと言うのです。 イザヤにとってみれば、「主よ、いつまで語るのでしょうか。」と尋ねるのが精いっぱいであったのでしょう。 それに対する神の答えは、すべてが奪い去られて、もはや自らの力では立ち直れないところにユダの人々は立たされる。 そこから初めて、イザヤを通して語られた神のみ言葉が、ユダの人々に聞き直される時がくる。 そこに立たされて初めて、新しい命が育まれていく。 「それでも、切株が残る。 その切り株とは聖なる種子である。」、神のみ心が刻まれた大切な命が残されている。 これがイザヤ書の中心メッセージです。 イザヤは、「落ち着いて、静かにしていなさい。 恐れることはない。」と、神に頼ろうとせず、自分の策と知恵、アッシリア帝国という目に見える力に頼ろうとするアハズ王に勧告するのです。 同時に、「あなたの神にしるしを求めよ。」と、真の助けが最もふさわしい時に授けられることに目を向けさせようと命令を降すのです。 しかし、アハズ王はこの先どうなるのか見通せない神の勧告よりも、目に見える一時的な安定と安らぎを求めてしまうのです。 そこでイザヤによって、「わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。」と言い、そのしるしこそ、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」と、「インマヌエル」(神共にいます)というメシア預言が出てくるのです。 神のみ言葉に聴こうとしない、目の前の敵を撃退するがために、もっと危険な敵に頼ってしまうという愚かさを示すことになったアハズ王に替わる新しい王の誕生をイザヤは望んだのかもしれない。 続いて即位する王もまた同じ過ちを犯し、希望を失いかけたイザヤは、主なる神による救いを求めてついに、11章1-2節において、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。 知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。」という、主の霊の注がれる真の救い主、メシア預言を「インマヌエル預言」として確信をもって語り始めたのです。 この預言がイザヤの生前にはユダの人々には響かず、失意のうちに40年間にわたる預言活動を終えたイザヤの死後、700年経った後、新約聖書の時代のマタイによってイエス・キリストの誕生の意味を、この「インマヌエル預言」に新しいイスラエルの誕生という希望の光を見出した。 イエス・キリストこそメシア、救い主、神の子の誕生の知らせだと聞き始めたのです。 この間の神の忍耐と、残された聖なる種子の働きによって、人々は神の預言の言葉を噛みしめ、味わったのです。 私たちは一時的な安らぎ、見えている安価な助けを求めるのではなく、「神共にいます」という呼びかけに、共に歩んでくださる神を、私たちのうちに受け入れて宿すことです。 主イエスは「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われたとマタイは福音書を締めくくっているのです。 主イエスの御言葉に生かされているという確信と安らぎのうちに、神の前に立ち続け、自分の姿を教えていただくことです。



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元