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「わたしたちは日のあるうちに」 ヨハネによる福音書9章4節

2025-01-12

 「生まれつき目の見えない人」のいやしの「しるし」は、単に「目が見えるようになった」ということに止まりません。 弟子たちはこの盲人の姿を見て、何の躊躇もなく「だれが罪を犯したからですか」とイエスに尋ねています。 その姿を、「罪」というものに対する「神の裁き」と受け止めています。 ユダヤの指導者たちも、律法の定めに反した安息日の行いであったことから、「定めを守らない罪人」としてイエスを捕らえようとします。 もし、このイエスがメシアであると公言する者がおれば会堂から追放すると定めたがゆえに、この盲人の両親は恐れて真実を語りません。 しかし、最初は「目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」としか言えなかった盲人が、次第に変えられていきます。 問い詰めるユダヤ人たちに、「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで聞いたことがありません。 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と述べるまでに変えられた。 案の定、会堂から追放された孤独なこの盲人に、主イエスは再び出会い「救い主を信じるか」と呼びかけるのです。 この盲人の口から、「その方はどんな人ですか。 その方を信じたいのですが。」という言葉を引き出され、「あなたは、もうその人を見ている。 あなたと話しているのが、その人だ。」と言われ、盲人は「主よ、信じます。」と答えてひざまずいたと言う。 「信じます」という告白に変えられたその人に、イエスは「わたしがこの世に来たのは、見えない者が見えるようになり、見える者が見えないようになる。」と言われたのです。 「見える」という言葉が「信じる」という言葉に密接に繋がっています。 この盲人の周りに動めく人々の捉える「罪」、「神の裁き」、「行い」と、主イエスを通して働く「神の業」が捉えるものとの違いがよく分かります。 主イエスは、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。 わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」(14:11-12) これから起こる十字架によるこの世の「死」によって姿は見えなくなるが、あなたがたのもとに聖霊が送られ、霊によって生きるイエスが私たちの内に宿り共に働くようになる。 目が癒されるとは、イエスと共に神の働きが起こされるということ。 イエスの言われる「信じなさい」とは、イエスと父なる神との交わりの中に、死に至らない生きる命の中に入って来なさいという招きの出来事であったのです。 イエスは、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(6:29)とはっきりと語っています。 「信じることによって生かされる」、「与えられる新しい命、み言葉に生かされる」ことが、「神の業」だと言うのです。 「罪」とは、見るべきものが見えていない、聞くべき言葉を聞くことができない状態、神のもとを離れていることに気づかず、どこに向かって生きているのか分からない状態を言うのでしょう。 そこから神が救うがために取り分けられることを、聖書は「裁く」と表現しているのではないでしょうか。 イエスはたった一人の盲人のもとに遣わされた者として、その目が開かれるために、ご自身を信じることを求められました。 世の光であるイエスを信じる時、初めて見えてくることがある。 イエスを用いて闇の中から救い出す神として出会ってくださったのです。 イエスと出会い、イエスの光に照らされ、自分の本当の姿を見つめることです。 イエスの光の前に立ち続け、共に歩んでくださるイエスを見失わないことです。 罪の赦しを与える神の救いの業があることを、未だ見ることも、聞くこともできない人々に伝え、証しすることです。 それらのことは自分の力ではなく、聖霊によって支えられると言うのです。 「日のあるうちに」私たちを用いて、今もって漂う人々を招いておられるのです。 



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