「ある病人に対するイエスの呼びかけ」 ヨハネによる福音書11章1~16節
「ある病人がいた。」と、無名の人が登場します。 最初は「病人」として身体的な病いから、ついには肉体的な死に至った人、2000年前に生きて病気にかかって死んで、イエスによってよみがえらされた人として登場するのです。 その人はマリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロという名前であったと言います。 このラザロという名前は、ありふれた名前であると言われています、 「神が助けをもたらした」という意味をもつ言葉のギリシャ語読みです。 ラザロという実名の方ではなく、むしろ実名に込められた意味の方に思いが込められているように思います。 この「ある病人」とは、神の助けによって生かされる人、イエスが愛しておられる人、その代表として登場しているのではないかと思わされます。 死んだ後も、復活させられた後もイエスに愛されているキリスト者の一人であったと、「ある病人」は登場しているのです。 イエスご自身が、父なる神のもとから遣わされた神の子であることを示すために、七つの奇跡が起こされました。 その最後の「しるし」として引き起こされた出来事が、この「ラザロの復活」の出来事でした。 単純な「死から生へのよみがえり」ということだけでなく、「墓の中から出て来る」ということが、「神の栄光のためである。 神の子がそれによって栄光を受けることなのである。」ということとつながっていく。 ラザロの姉妹マルタとマリアたちとイエスの対話の中に、「信じる」ということが密接につながっていく。 この出来事でイエスの公の活動は終わり、一気にイエスの十字架と復活へと突き進む、ヨハネによる福音書全体の分岐点となっている。 その中心に位置している大事な「しるし」であるように思わされるのです。
み言葉は、一対一で神の側から語られた、その人にしか分からない人生のストーリーに呼びかけられた体験を味わうものです。 だれにでも通用する普遍的な教えを語っているのはない。 病気や死という肉体的なものから、イエスご自身のご愛、新しい復活の命に生かされるという霊的なものを辿って語られているのです。 ラザロは、「わたしは彼を起こしに行く。」とイエスに呼びかけられる一人の人物として描かれています。 イエスに愛されている人として登場しているのです。 マリアは、「主イエスに香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である」、「行動でその信仰を表すキリスト者である」と紹介されています。 マルタは、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか。」とイエスに尋ねられ、「はい、主よ、わたしは信じています。」という「信じる信仰」に導かれたキリスト者として紹介されています。 ラザロは癒される者、救い出される者、「死で終わらない者」として登場し、イエスはラザロの墓の前に立ち、心に憤りを憶え、涙を流し、「墓石をとりのけなさい。 ラザロ、出て来なさい。」と大声で叫ばれたのです。 ラザロの復活の根拠は、ラザロがイエスに愛されていたことでした。 イエスの決断と呼びかけがあったことです。 神の側の働きが先にあるのです。 その時の弟子たちの様子が記されていますが、何とも情けない有様です。 しかし、イエスはそのようなキリスト者たちを憐れんで、「信じる信仰」に至らせてくださるのです。 私たち人間が信じて勝ち取るようなものではなく、イエスの霊なる働きに支えられて、信じさせられたとしか言いようがありません。 信じることによってしか、人は新たな命を得ることができない。 キリスト者らしい姿になったとかという倫理的な状態を言うのではなく、新しい命を得た者、生き返っている、生かされている者に変えられているかどうかです。 そのために、イエスは「神のご愛を信じる信仰」、「復活であり、命である主イエスを信じる信仰」を注ごうとされるのです。