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「力強く苦難に向かうイエス」 ヨハネによる福音書18章1~9節 

2024-11-10

 「イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。 そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。」とあります。 他の福音書は、このオリーブ山のふもとにある園をゲッセマネと呼び、「苦闘の祈り」をイエスがささげられたと言います。 「わたしは死ぬばかりに悲しい。 父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 しかし、わたしの願いではなく、御心のままに。」と祈られたと記されています。 しかし、ヨハネによる福音書は、この「ゲッセマネの祈り」は語られておらず、むしろ、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と、苦悩の祈りの葛藤は克服されたものとして、自ら引き受ける決意の強さを感じさせるのです。 「イエスは弟子たちと共に度々、この園に集まっておられた。 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。」と言います。 この直前の最後の晩餐で、イエスは「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。 わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ。」と言われ、ユダにそのパン切れをお与えになり、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい。」と言われ、ユダはそのパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。 夜であった。」と言います。 このような顛末があるなら、危険からご自身の身を守るためには、いくらでも逃げ延びることができたでしょう。 どう考えても、イエスは逃げるためではなく、捕らえられるためにユダもよく知っている場所に出向かれたとしか言いようがありません。 逮捕され、裁判にかけられ、十字架に処刑され、命を奪われることを承知のうえで、人としての苦難を敢えて自ら選び取られたイエスのお姿。 先が見えておられ、最も危険な行動を自ら取り、捕らえられるところに自ら進んで身を置かれた無防備なイエスのお姿に映るのです。 そこに、手に松明やともし火や武器を持っていた兵士たちが、ユダに導かれてやってきます。 「暗闇」の中に出て行ったユダが、再び、「暗闇」のような大勢の存在を引き連れてイエスのもとにやってきた。 イエス自らが「暗闇」の真っ只中に身を置くことによって、私たち人間の「暗闇」が引きずり出されるのでしょう。 「イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられた。」と言います。 もうすでに、父なる神のご意志とご計画の中にあること、動かし難いものとしてイエスの心に受け止められていたのでしょう。 「だれを探しているのか」と兵士たちの前に進み出て、兵士たちが「ナザレのイエスだ。」と答えると「わたしである。」と答えたと言います。 かつてモーセに「わたしはあるという者だ。」と答えられた父なる神の名を、ここで、この時に、ご自身を表すものとしてイエスが答えられたのです。 これを聞いた兵士たちは、「後ずさりして、地に倒れた。」とあります。 他の福音書では、このような状態に「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」と言いますが、このヨハネによる福音書では、イエスご自身が弟子たちを逃れさせたと言います。 「それは父なる神が与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」というイエスの御言葉が実現するためであったと言います。 イエスが立ち向かって進み出られたのは、兵士たちの前ではありません。 イエスは人間による裁きのためではなく、父なる神の御心を果たすための裁きの前に進み出られたのです。 そして、あらゆる人々を、この裁きから立ち去らせるようにと父なる神に向けて、とりなしの祈りをささげ続けてくださっているのではないでしょうか。 イエスご自身を裁きの場に立たせようとされているのは、父なる神です。 イエスはその父なる神に向けて、ご自身と同じ裁きの場に立たせないでくださいと祈ってくださっているのです。 罪のない神の子であるイエスが、その「神の怒りの杯」を飲み、本来飲むべきはずの杯を私たちが免れているのです。



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