秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「交わりと慰めの回復」 コリントの信徒への手紙二7章8~16節 

2024-11-03

 「あの手紙」とは、パウロが涙ながらにコリントの教会の人たちに書き記し、テトスに託して送った「涙の手紙」、パウロ自身に侮辱を加えた人物を除名するよう促す厳しさをもった手紙です。 直接話し合いをしようとコリントの教会に訪れたパウロに、激しい罵りの言葉を浴びせた人物がいたと言われています。 「確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。」とパウロは言っています。 「わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。 外には戦い、内には恐れがあったのです。」と言うまでに、悶々とした状態であったそのパウロが、「しかし、気落ちした者を力づけてくださる神が、わたしたちを慰めてくださいました。 今は喜んでいます。」と言うのです。 その理由は、コリントの教会の人たちが「ただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。」と言い、悲しみには「この世の悲しみ」と「神の御心に適った悲しみ」がある。 この二つの悲しみは、それぞれ異なったゴール、出口に私たちを導くと言うのです。 ユダの姿を思い起こしてみてください。 ユダはイエスの十二弟子のうちの一人です。 そのユダが、自分が描いていたメシアとは異なるイエスの姿に失望し、イエスを銀貨30枚で最後の晩餐の夜、祭司長たちに引き渡したのです。 イエスに有罪判決が下ったのを知って、ユダは「わたしは罪を犯しました」と言い、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだと言います。 ユダは罪を後悔したけれども、再び主イエスを仰ぎ神のもとに立ち帰ることなく、自分で自分を裁いたのです。 聖書の言う「悔い改め」が生まれることなく、「この世の悲しみ」、出口のない悲しみに止まったのです。 一方、ペトロの姿を思い起こしてみてください。 ペトロは12弟子の代表者です。 「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白したその信仰の上に、主イエスは「わたしの教会を建てる」とまで言われた人物です。 そのペトロが、イエスが捕らえられた時、自分の身に迫る恐れにかられて今までこよなく慕ってきたイエスを、「このような人は知らない」と三度も否定したのです。 ユダに優るとも劣らない罪を犯したのです。 しかし、ペトロはそのような自分を悲しみながら、イエスの後を追い続け、ついによみがえられた主イエスによって三度の否定を打ち消すかのように三度も赦されたのです。 ペトロは自分の犯したことだけを後悔したのではありません。 神のみ前に立ち続け、自分の本当の姿に悲しんだのです。 「神の御心に適った悲しみ」とは、神の前に立ち続ける人の悲しみです。 神を見つめながら、今まで縛られていたものから神の方へ向き直したことからくる「悲しみ」です。 霊なる神の働きによって与えられる、信仰なしには起こりえない神の業です。 「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる。」と言う。 主イエスが「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」と言われたように、自分の本当の姿を直視し、主イエスによる赦しと救いが備えられていることを知ることです。 離れてしまっていた神のもとに、赦されて立ち帰ることです。 パウロの「涙の手紙」は、自分自身の名誉回復のためでも、「例の事件」を引き起こした人たちの処罰のためでもなく、神の御前であなたがたの熱心を明らかにするため、パウロたちとコリントの教会の人たちとの間に、和解と赦しが与えられるためです。」と言うのです。 パウロはコリントの教会の人たちの「悔い改め」の姿からも、その吉報を持ち帰ったテトスの喜びの姿からも、「気落ちした者を力づけてくださる神」が働いてくださったことからも喜んでいるのです。 互いに経験した「悲しみ」は、神によってもたらされた、なくてならない「悲しみ」であったのです。 「神の御心に適う悲しみ」は、悲しみで終わることはありません。 



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元