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「ダビデのひこばえ、輝く明けの明星」 エレミヤ書23章1~6節 

2024-11-24

 新約聖書では、旅の途中で宿るところもなく、神の子イエスが家畜小屋で生まれた。 その時、神の使いが近寄って来て主の栄光をもって周りを照らし、「恐れるな。 わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。 この方こそ主メシアである。 あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。 これがあなたがたへのしるしである。」と告げられたのでした。 メシアが父なる神から届けられた。 それが大きな喜びに変えられる。 それも民全体に対して、分け隔てなく一人ももれなくです。 神に真っ向から敵対し神ならぬものによりすがっていた民に向けて、それでも神が民を救うために神の裁きのもとに降るメシアが与えられるという預言が、目に見える形となって届けられたと告げるのです。 BC七百年代に預言者として神より召命を受けたイザヤは、神の厳しい裁きが下されると示すと同時に、神に信頼する「残された者」がいると希望をも語るのです。 その確信が、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。 彼は主を畏れる霊に満たされる。 その日がくれば、エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられる。」と言うのです。 約七百年の時を経て、イエス・キリストの誕生という「しるし」に、神のご愛と神の裁きが結実したのです。 一方、エレミヤはイザヤから送れること約百年後の時代に生きた神に選ばれた預言者です。 あまりにも現実をありのまま見つめようとするエレミヤは、希望を語ろうとしない悲観論者に見えてしまう。 しかし、エレミヤは物事の両面を見ていて、神の厳しい裁きと共にその背後にある大きな神のみ心に目を向けるのです。 もし、イスラエルの民が神に固くつながっているのであれば、たとえ国が滅んでも、イスラエルの民は滅ぶことはない。 イスラエルの民が敵国バビロンに捕囚として移動させられたとしても、彼らを通して神が蒔かれた種は、その自らの命でもってその芽を出し実を結ぶ。 異教の地であってもその実を刈り取って新たな群れを起こしていくはずである。 エレミヤこそ、国の滅亡をむやみに悲観することなく、事実を事実として希望的に見て、現実を遥かに超えたところにある神の力と知恵を確信していたのではないかと思わされるのです。 「群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。 彼らを牧する牧者を立てる。 群れはもはや恐れることも、脅えることもなく、また迷い出ることもない。 ダビデのために正しい若枝を起こす。 その名は『主は我らの救い』と呼ばれる若枝を起こす。」と言うのです。 このエレミヤの信仰こそ、現実の苦しみや悲しみに真正面から向かい、事実を事実として味わうことから滲み出てくる希望なのではないでしょうか。 イザヤもエレミヤもクリスマスの出来事を予告した預言者でした。 主イエスが訪れてくださった新約聖書の時代を恵みにより与えられた私たちは、苦悩の中に主イエスの誕生を見つめ続けてきた旧約聖書の時代の預言者たちの苦しみと悲しみ、あまりにも厳しい神の裁きのうえに立った、恵みとしか言いようがない救いの業であることを忘れてはならないのです。 すでによみがえられてすべての人に対して招き続けておられるイエスの「わたしはダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」というみ言葉が響きます。 神の裁きのもとに自ら進んで降って死んでくださったイエスです。 新しく霊なる命に生きる存在となられて、今もなお私たちに働きかけてくださるイエスです。 暗い夜を過ぎ去らせ、新しい朝を備えてくださるイエスです。 「恐れることも、脅えることもなく、また迷い出ることもない。」と言われる主イエスに、今年のクリスマスもまた出会い、触れて味わうことができますよう心より願います。



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