「まだ見ぬ恵みの種」 マルコによる福音書4章26~32節
ユダヤのなじみ深い何気ない日常生活に関わる二つの「種のたとえ」です。 イエスは、「人々の聞く力に応じて、多くのたとえで御言葉を語られた。」とあります。 人々のあらゆる病いを癒すという奇跡をもって、あるいは当時の人々にとっては衝撃的な教えをもって神の福音の恵みを宣べ伝えておられたイエスは、その締めくくりの言葉として「たとえ」を語られていたのかもしれません。 しかしイエスは、「たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」とも言います。 見えにくい神の恵みの支配を示すために、見えていない神の国を見えるようにするために「たとえ」をもってなぞらえるのでした。 捉える力も、見抜く力も乏しく貧しい者であっても、イエスを通して語られるみ言葉を受け入れるなら、イエスを信頼する心が与えられるのなら、見えないものが見えるようになる。 聞こえていなかったものが聞こえるようになる。 イエスの弟子となって、イエスを主と迎え入れるなら、はっきりと見えていない神の国、この奥義の秘密が明かされると言うのです。 「成長する種」のたとえには、「神の国は次のようなものである」と言い、「からし種」のたとえでは、「神の国を何にたとえようか」と言い、目に見えない神の恵みと憐みが支配している世界を譬えようとしています。 この直前にイエスが語られた「種を蒔く人」のたとえでは、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている。 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 この御言葉を聞いて受け入れる人たちは多くの実を結ぶ。」と言います。 もうすでに「種」である神のみ言葉はあらゆるところに蒔かれている。 蒔かれた場所には、「種」の成長を阻む力、「種」を奪う力が働いている。 せっかく蒔かれた「種」を手離し、見失うという弱さも働く。 それでも「種」を蒔く人は、収穫される実がなると信じて蒔いている。 手入れをし、成長することを祈り、待ち続けている。 最初は小さな存在が、大きく養われて、形を変えて想像もつかないほどの実となっていく。 なぜなら、神が「種」に命を注ぎ、育て、実を結ぶことを約束されているからだと言うのです。 イエスこそ、私たちの中に蒔かれた福音の「種」です。 「わたしにつまずかない人は幸いである。」と言われている。 イエスの語られるみ言葉を自分に語られる言葉として受け入れるなら、神の恵みが支配されている世界をはっきりと見ることができるようになる。 目の当たりに味わうことができ、「天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない。」というみ言葉に立つことができるようになると言うのです。 「成長する種」のたとえでも、人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する。 しかし、種を蒔く人は、それがどうしてそうなるのか知らない。 「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」というプロセスを経ている。 「成長させてくださったのは神」なのです。 「種」という神の言葉には命が隠されていて、神のみ心に従って事は進み実がなっていくのです。 最初は「からし種」のように小さな存在も、成長すると大きな存在に変えられる。 イエスは、「人々の聞く力に応じて」、「種」の成長の謎と、成長の大きさを説き明かし、最もふさわしい「時、ところ」で神が約束を果たしてくださると語るのです。 すでに種は蒔かれている。 その種がなぜ成長するのかその理由は分からない。 しかし、やがて豊かな実がなるという神の約束が種には込められている。 私の弟子であるなら、その「種」を持ち運ぶことも蒔くこともできる。 神の働きに委ねて、いずれ育った実を収穫し、感謝して受け取ることもできる。 命をも左右することのできる神の働きの一端を味わい知ることができるようになる。 「隠されたもので、顕れ出ないものはない。 目に留まらないような小さな現実の中にこそ蒔かれた種がある。」と言われるのです。