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「自由にされるということ」 ヨハネによる福音書8章31~38節

2024-10-27

 主イエスは、ユダヤ教の会堂から外に出て「御自分を信じたユダヤ人たちに」、「わたしの本当の弟子とは、わたしの言葉にとどまる者である。 そうであるなら、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と言われたのです。 ヨハネの言う「ユダヤ教の会堂に未だに留まっている者」を、パウロもまた「石に刻まれた文字」をいかに守るべきかという「古い契約に仕える者」と言います。 モーセが神から二枚の掟の板を授けられた時、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。 そのため、モーセは自分の顔に覆いを掛けたと言います。(出エジプト34:29-35) モーセの顔に現れている神の輝きを、当時の人々は「顔の覆い」によって見ることができなかった。 主なる神そのものの輝きを表す「真理」に近づくことができなかった。 その「顔の覆い」が、イスラエルの人々の心を鈍くさせているとパウロは言うのです。(コリント二3:14) 文字に記された「戒め」を守っているという自分の熱心さによって、神に認めてもらえると信じている。 救いの根拠を自分たちの側に置き、神に受け入れられるものかどうかを念頭に置いていない。 この「覆い」によって、真理そのものである主イエスが隠されてしまっているとパウロは主張するのです。 主イエスは、「ご自身の言葉として」、「ご自身をメシアと信じ告白した者」に対し語られているのです。 ローマ総督の尋問に際しても、「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。 真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と言われました。 また、「わたしは道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とも宣言されておられます。 聖書の言う「真理」とは、客観的な事実のことではなく、神自らが目に見える形としてこの世に現れてくださった主イエスのことです。 このお方に出会い、味わい、そこに注がれる父なる神のご愛とご真実に触れて、その御心を味わうことが「真理を知る」ということでしょう。 ユダヤ人たちはこのイエスの呼びかけに、「今まで奴隷になったことはありません。」と言い、「あなたたちは自由にされるとどうして言われるのですか。」とイエスに尋ねるのです。 ユダヤ人たちは「自由にされる」とは、奴隷からの解放とだけ理解するのです。 しかし、主イエスは「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」と言います。 聖書の言う「罪」とは、神のみ前に進み出ることを拒む、神から注がれる祝福を受け取ることを拒むことです。 主イエスの言葉にとどまるなら、主イエスを通して父なる神との正しい関係に回復される。 「罪」の結果である、この世の「生」が途絶えるところで終わってしまう「死」、この「死」からも解放される。 今、この世の神ならぬものに懸命に縋っている「自分自身」からも、パウロが警鐘を鳴らしている「心を鈍くしているあらゆる覆い」からも、その時々に移り変わるようなはかない「道徳、ヒューマニズム、常識、伝統」といったものからも自由にされる。 「石に刻まれた文字」、人に罪を示し、罪に定める務めではなく、裁かれて向きを変えて霊の働きによって新しい契約に仕える者へと変えられる。 「十戒」というモーセを通して与えられた神の戒めは、神の民として生きる指針です。 やがて来られる救い主によって贖われなければ、その戒めからも解放されないものです。 それを自分たちの権威や正しさのために膨大な枠組みを作ってしまった。 もはや救い主を待ち望む時代は終わり、救いの恵みが明らかにされている時代を迎えている。 主イエスご自身の方に向き直ることによって、この心の「覆い」は取り除かれることになる。 「わたしの言葉にとどまるなら、父なる神との関係に取り戻される。 父なる神そのものである真理を知り、その真理はあなたたちを自由にする。」と、私たちの努力ではなく主イエスが約束してくださっているのです。



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