「神を完全に信頼できないヤコブ」 創世記32章2~22節
父イサクを騙して、兄エサウを出し抜いて、エサウが受け継ぐはずであった神の祝福を、自らの知恵と策略で強引に奪い取ったヤコブでした。 後でこのことを知った兄エサウは、「いつの日か、必ず弟のヤコブを殺してやる。」と心に秘めるのでした。 そのことを察知した母リベカは、自身の兄ラバンのもとに逃げなさいとヤコブを促し、この逃走劇が始ったのです。 その逃亡の途中ヤコブは、主なる神が傍らに立って、『あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 わたしは、あなたと共にいる。 あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。 わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。』という約束を語るのを聞く。 その逃亡先のラバンの家で、ヤコブは20年間も労働を強いられる。 神の約束を果たされる時がついにきたと、神が再び『あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。 わたしはあなたと共にいる。』と呼びかける。 ヤコブは妻や子どもたち、すべての財産を携え、再び逃亡の旅が始まったのでした。 神の約束があるとはいえ、故郷に帰れば兄エサウと顔と顔を突き合わせなければならない。 ヤコブは忘れていた過去の過ちを思い出し、エサウの復讐を恐れ、知恵を働かせ、様々な対策を練り実行する。 そうした準備をしたうえで、ヤコブは神に祈るのです。 過去に示された神の約束を訴える。 神の恵みの数々を憶え神に感謝するとともに、「受けるにふさわしくない者である」と告白する。 エサウが家族をも殺すかもしれないとただ神の約束にすがる。 そう祈りながらも、なおも抜け目のない才覚に溺れ、エサウに会うまでの作戦を立て、すべての準備を整え「ヤボクの渡し」に皆を渡らせ、何も持たず独りとなったヤコブでした。 神への信頼と人への恐れ、神への祈りにすがりながら知恵による策略に依り頼むヤコブでした。 しかし、ヤコブは兄エサウに、自分が故郷に戻ってきたことを予め伝えている。 神のみ前では、やり方はどうであれ神の約束に従っている。 心の憶測にある恐れを素直に訴え、懇願し祈る。 与えられた神の恵みこそ身に余るものであると告白する。 和解のため精いっぱいの慎重さをもって対処しようとしている。 考えてみれば、ヤコブはエサウとの関係を絶ち切って、逃亡先のラバンのもとで過ごすこともできたはずです。 神の呼びかけに立ち上がり、和解のために自分の身を再びもっていこうとしているではありませんか。 このヤコブに対する神の応えが、「ベヌエルの格闘」と「兄エサウとの再会」でした。 「祝福してくださるまでは離しません」と、今までと変わらず神と格闘するヤコブに、自分の知恵に頼るヤコブの腿の関節をはずし、無力なものとして砕く。 20年ぶりに自らの過ちの前にヤコブを再び立たせる。 「人を押しのける者ヤコブ」ではなく、イスラエルの12部族の族長となると「イスラエル」という新しい名を与え、兄エサウに再会させるのです。 「エサウが400人のものを引き連れて来るのを見て、ヤコブは兄エサウのもとに着くまでに七度ひれ伏した。」と言う。 無力とされたヤコブには、兄エサウへの恐れは微塵もなかった。 兄エサウの恨みも、20年の月日を経て消えてなくなっていた。 エサウはヤコブのもとに「走って来てヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」と言う。 神はご自身が語られた約束を、自らの働きをもって果たされたのです。 ヤコブは兄エサウの中に、約束を必ず果たされる神、赦しを与えてくださる神を見たのです。 このヤコブの姿は族長という一人の個人の姿ではなく、神の子とされた私たちキリスト者の姿に映ります。 ヤコブの時代にはなかったキリストの福音が、私たちにはすでに与えられ成し遂げられています。 完全に信頼し切ることのできない弱い私たちを、神がキリストの福音を通して自ら果たしてくださるのです。