「神の子として生きる喜び」 ヨハネによる福音書10章22~42節
「神殿奉献記念祭」とは、シリアに侵略されエルサレム神殿の中に異教の神が持ち込まれたが、その後シリア軍を打ち破って、異教化されてしまったエルサレム神殿を取り戻したことを記念した国民的祭りで、「宮清めの祭り」とも訳されています。 ユダヤ人指導者たちとの対立が決定的になっていたイエスが、真の礼拝をささげる場となっていないエルサレム神殿を取り戻そうとされた、「宮清め」の働きを果たそうとされたとヨハネによる福音書は語りたかったのでしょう。 「神殿奉献記念祭」の時に、イエスは「神殿の境内でソロモンの回廊を歩いていた」と言います。 「ソロモンの回廊」とは、律法学者たちが常用していた場所であると言いますから、まるで「飛んで火にいる夏の虫」と言ったところでしょう。 エゼキエル書34章には彼らの行状は、「群れを養わず、自分自身を養っている。 弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。 追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。」と記されているのです。 彼らはイエスに、「もし、メシアなら、はっきりそう言いなさい。」と迫ります。 イエスは今まで、自分自身のことを「たとえ」を用いて語っていたので、彼らは「その話が何のことか分からなかった」のです。 イエスは、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。 わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証ししている。 しかし、あなたたちは信じない。」と反論し、「あなたたちは、わたしの羊ではないからである。」と語るのです。 イエスはこのように決定的に反目する者に対しても、諦めず最後まで「良い羊飼い」のたとえを用いて繰り返し訴えるのです。 私たちはこのイエスの訴えを聞き取らねばなりません。 「わたしの羊」と言うように、イエスの羊として既に知られている。 その事実のうえに、イエスの呼びかけを聞き分ける、従うという事実が加わって、イエスと私たちのつながりが確かなものとなっていく。 このイエスの手の中にあるという事実から、だれもイエスの手から奪い去ることができないと言われるのです。 ついには、「わたしと父とは一つである」と、人間としての一線を越えて語ったものですから彼らの殺意を呼び起こすのです。 彼らは律法に書かれてある(レビ24:15)「神を冒瀆する者はだれでも、その罪を負う。 共同体全体が彼を石で打ち殺す」と定められていることを十分承知のうえで「メシアなのか」とイエスに迫るのです。 彼らの言う「神を冒瀆した」というその「神」とは、自分たちが築き上げてきた宗教的権威や体制のことでしょう。 イエスは詩編82編を引用し、神の言葉を受けた人たちは「神々」と言われているではないか。 神にたとえられるほどの存在が、「ふさわしい務めを果たしていない。」と言い、今何が起きているのか、その現実を注意深く見聞きするようにと言うのです。 イエスは私たちと同じ肉体を担ってくださり、託された神の様々な業を通して映し出された諸々の事実、恵みの世界にある神を目の当たりに見るようにと示し、律法の戒めの中でしか神を見ることのできなかった彼らに言われているのです。 ただ恵みにより、神とイエスとの関係に招き入れられていること、この恵みの先行によって私たちの信仰が歩み始めることを忘れてはなりません。 イエスはその後、エルサレム神殿に戻らず、ヨルダン川の向こう側、ヨハネがバプテスマを授けていたところに行って、そこに滞在されたと言います。 「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことはすべて本当だった」という素朴な民衆の証しが述べられています。 エルサレム神殿の権威から解放されて、素朴に証しし、心からイエスを信じることができたという「救い」がエルサレム神殿の外にもあることを、指導者たちと素朴な民衆の姿を対比して示しています。