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「今は見えると言う証し」 ヨハネによる福音書9章18~25節 

2024-09-08

 9章には、「生まれつき目の見えない人の目をイエスが癒す」という出来事が記されています。 生まれつき目の見えない人、奇跡を起こしたイエス、奇跡を周りで目撃した人々、イエスを罪に定めようと企むファリサイ派の人々の姿が織り重ねられています。 イエスは「通りすがりに見かけられた」その人に目を留め、声をかけられた。 肉体的な不幸は罪の結果であるという、当時の因果応報の思想により苦難の原因にしか目が向かない弟子たちに向けて、「神の業が、遣わされたこのわたしを通して現れ出るためである。」と言われ、苦難の目的の方に焦点を当てようとされるのです。 言われただけでなく、「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。」 そして「池に行って洗いなさい」とまで言われた。 イエスのとったこの行動はすべて、安息日にしてはならない行いです。 この律法に縛られた人々を前にして、救いの出来事をイエスは始められたのです。 ファリサイ派の人々は、「安息日を守らないから、イエスという人物は神のもとから来たものではない。」と、その戒めを破った確証を得るために、執拗に尋問を本人に繰り返すのです。 事実だけを答えるしかできない本人は、次第にイエスとは誰であるのかを考え始め、「あの方は預言者です」と奇跡を呼び起こす者として意識し始めたのです。 盲人の目が開かれることを信じることのできないファリサイ派の人々は、本人の両親を呼び出し「この者は生まれつき目が見えなかったのか」と尋問します。 この時、「イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放する」と既に定められていた。 この社会的な死を意味する恐ろしい規定が両親をして、真実を見ようとしない、目をそらそうとする、判断を避けようとする「見えない者」のようにするのです。 そこで、ファリサイ派の人々は、「安息日に戒めを守らないイエスは、罪ある人間だと知っている」と語りかけ、本人を追い込み迫るのです。 その時の本人の証言が、「あの方が罪人であるかどうか、わたしには分かりません。 ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」というものでした。 本人は社会的に追い込まれても、「今、ここで」自分に起こされた事実だけに立ち続け、「見える」という意味合いに新しい光が差し始め、「イエスとの出会いを味わった者」としての姿に変わりつつあるのです。 自分たちが望む回答を得るために質問を繰り返すファリサイ派の人々に、当の本人は「聞こうともしない、見ようともしない、受け止めようともしない」彼らに、「神は罪人の言うことはお聞きにならない。 神をあがめ、その御心を行う人の言うことはお聞きになります。」とまで語ったものですから、制定されていた追放規定により会堂から追い出されたのです。 この会堂から追放された本人に、イエスは再び出会ってくださるのです。 「あなたが見ている、話しているのがメシアである」と宣言し、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われて、全く無関心であったところから、預言者である、神のもとから来られた方である、あなたこそ救い主であると証言できるまでに変えられたのです。 肉体的な目が開かれてから救いの出来事が始まり、問い詰められるにつれてその事実をしっかり見つめ直し、その事実に立ち続けた本人の心の目、霊の目が開かれたのです。 そのイエスとの交わりから引き離そうとする力が働いたとしても、「今は見える」という立場に立ち続けることができた。 私たちが「見て、聞いて、触れることのできる」お方として、主イエスが父なる神を示してくださったのです。 病いが癒されたことが大切なことではなく、目に見える事実として神の働きに出会い、神のみ業が始まったことに気づくことが大切なのです。 主イエスは必ず自ら近寄って、出会ってくださるのです。 「目の見えなかったわたしが今は見える」という信仰へと導いてくださるのです。



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