『囲いの内と外』 ヨハネによる福音書10章7~18節
イエスは、「わたしは羊の門である。」と言い、この前段落では「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 門から入る者が羊飼いである。」と言います。 エゼキエル書34章には、「牧者たちは、群れを養わず、自分自身を養っている。 見よ、わたしは自ら自分の群れを捜し出し、彼らの世話をする。 すべての場所から救い出す。 連れ出し、集めて、導く。 養い、憩わせる。 追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。」と言われ、ダビデのような羊飼い、メシアが現れると預言されていたのです。 イエスがここで「羊の囲い」、「羊飼い」、「羊の門」のたとえを用いて、ユダヤ教の支配者たちに向けて、「神の民を養い、育む務めを主なる神から託されているのに、自分たちを養うことだけに専念し、むしろ神の民を支配し苦しめている。」と語られているのに、彼らは自分たちのことが語られているとは気づかなかったのです。 イエスは、ユダヤ人たちが語る「良い羊飼い」と「悪い羊飼い」という次元を超えて、これから起こされる十字架の出来事をたとえを用いて権威をもって語り進めます。 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 わたしは良い羊飼いである。 良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」とまで言われたのでした。 「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」と言う意味は、「人格的な結びつきがある、交わりがある」ということです。 父なる神と御子なるイエスとの関係、ご自身と神の民との関係を、羊飼いと羊の関係にたとえておられるのです。 ご自身を「見失った一匹の羊を探し回る真の羊飼い」だと言うのです。 そして、羊飼いのいないイスラエルの民をご覧になって、「飼い主のいない羊のような有様」であると深く憐れまれたのです。 イエスはご自身の大切な務め、父なる神によって託された務め、十字架の苦難と死、そこから解放されて新しい命へとつくり変えられる道、「復活の道」を切り開くことになる、果たすことになる。 「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。 それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。 わたしは自分でそれを捨てる。 わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。 これは、わたしが父から受けた掟である。」と「羊の囲い、羊飼い、羊の門」のたとえを用いて語られたのでした。 イエスは、「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。 その羊をも導かなければならない。 その羊もわたしの声を聞き分ける。」と付け加えるのです。 イエスはこの世においては様々な囲いがあることを承知のうえで、「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と断言されるのです。 イエスを通して注がれる神のご愛は、私たちが勝手に定める「囲い」などによって限定することなどできないでしょう。 当時ですら、すでにローマ兵士の中にも、ファリサイ派の人々の中にも、「囲い」を越えてイエスのみ言葉を聞き分ける者がいたのです。 私たちはこの世において、異質なものに囲まれながら、それでも「神の民」として生きていくのです。 教会の群れは、神によって呼びかけられ集められた者の群れです。 私たちはその「囲い」の外に身を置いて、生活と人生を共に味わいながら、それでも神の国に籍をもつ者として証ししていく務めが恵みとして与えられているのです。 「終わりの日」には、イエスに似たものとなると約束されています。 小さな存在ですが、そこが神の民の群れの源となる、何もなかったところに湧く祝福の源になるのです。