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「赦されている私たち」 ヨハネの手紙一2章1~11節

2024-08-18

 「徴税人の頭であり金持ちであった」ザアカイはなぜイエスに呼びかけられたのでしょうか。 「徴税人」とは、人々からお金を搾取し私腹を肥やしていた人物で、その元締めですから「罪人の代名詞」でした。 「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とイエスが言われたように、神から最も遠い存在であったのです。 ザアカイにとってみれば、単なる好奇心からであったかもしれない。 「イエスを見るために走って先回りをして、木に登って待っていた。」 そこにイエスが差しかかると、「木の上を見上げて、ザアカイ、急いで降りて来なさい。 今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」と呼びかけられた。 この「泊まりたい」とは、「泊まらなければならない、泊まることになっている」という意味合いです。 知られる筈のない自分の名前を聞いて呼びかけられたことを知り、「急いで木から降りて来て、喜んでイエスを迎えた」と言う。 イエスを通して、父なる神との交わりの回復が「今、ここで」始まった。 このイエスの呼びかけに動き出したザアカイの振る舞いは、単なる好奇心を越えた心の奥底に潜む「求め、願い」であった。 ザアカイの一連の動きはイエスご自身によって起こされ、ザアカイ自身に止まらずザアカイの家にまで及ぶ「福音の到来」です。 ザアカイはこの招きにふさわしい何かを成し遂げたわけでも、招きにふさわしい姿になったからでもない。 ただイエスに言われたとおり、近づいて行ってそのみ言葉を受け入れたのです。 自分の家に招き入れたザアカイは、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」と唐突に話し始めます。 軽いお詫び程度で、なぜ徴税人の職を辞するとまで言えないのだろうかと思わされますが、明らかにザアカイの心に変化がもたらされ、精いっぱいのイエスに対する告白が起こされたのです。 イエスはこの姿を見て、「今日、救いがこの家に訪れた。 わたしは失われたものを探して救うために来たのである。」と言われた。 イエスはザアカイをすでに、「徴税人の頭であること」も、「私腹を肥やしていたこと」も受け入れておられる。 自分の姿を見つめようとしないザアカイを呼び寄せて、ご自身との交わりに招いておられる。 聖書の言う「罪」とは、神の呼びかけに背を向けみ前に進み出ようとしない状態を言うのでしょう。 ヨハネの手紙は、「あなたがたが罪を犯さないようになるため」にこの手紙を書いていると言います。 せっかくイエスを通して結ばれた神との交わりから離れないようにと勧め、「たとえ罪を犯しても、神のもとを離れてしまっても、御父のもとに弁護者、イエス・キリストがおられます。 この方こそ、全世界の罪を贖ういけにえです。」と言うのです。 天の裁きの場で私たち人間の罪の姿が浮き彫りになっても、「いけにえ」として差し出された御子イエスが弁護者として、今もってとりなしの祈りをささげ続けてくださっていると言うのです。 私たちの信仰の出発点は、先ず、自分自身の本当の姿を見つめること、神のもとから離れてしまっていることに気づくことです。 そのために、イエスは呼びかけ出会ってくださるのです。 ザアカイがそうであったように、そのことに気づいたのなら、御子イエスの十字架によってすでに「赦されている、贖われている」ことに気づくことになるのです。 私たちはそれに応えて踏み出し、導かれるままに身を委ねていく。 すると刻々と新しい変化が起こされ、いつしか神のもとにたどり着くまで、恵みの上に更に恵みを受け取っていく。 「神の掟を守るなら、神を知っていることが分かります。 神のみ言葉を守るなら、その人の内に神の愛が実現しています。」と言います。 「神を知る、神の愛が実現する」とは、神との人格的な信頼関係、血の通った温かい交わりで結ばれているということです。 その時こそ、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」ことを賛美することになるのです。



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