「イエスの声を聞く体験」 ヨハネによる福音書16章25~33節
イエスがこの世を去るにあたり、愛する弟子たちに語られています。 イエスご自身が十字架に架けられる前日、最後の晩餐の席上でのことです。 この直後には、ユダに導かれてイエスを捕らえるために兵士たちがやってくる差し迫った場面です。 イエスは、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。 あなたがたは悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。 あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 あなたがたは喜びに満たされる。」と言われていた。 弟子たちは「これはいったい何のことだろう」と分からないでいた。 イエスと弟子たちとの思いの大きな隔たりには、50日間の産みの苦しみが必要でした。 この直後に訪れるイエスの処刑の出来事、自分たちを守り支えてくださるはずのイエスがこの世の支配に降り、余りに無力な敗北の姿を弟子たちは目の当たりにせざるを得なかったのです。 絶望のうちに家の戸に鍵をかけ閉じこもっていた弟子たちの前に、イエスは復活した事実を幾度となく表し、今までと変わりなく約束通り呼びかけてくださった。 そして、50日後に聖霊が弟子たちそれぞれに注がれて、恐れていたこの世の支配者たちに堂々と語る力を得て、「あなたがたが十字架につけて殺したナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。 わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と語り始めたと言うのです。 イエスは最後の晩餐の席上で「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」と言われた。 父なる神を知るようになるその時、あなたがたはわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じることができるようになる。 父なる神の温かいご愛に触れることになると、イエスは弟子たちに約束されたのでした。 この約束に弟子たちは、「これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」と答えたと言う。 この弟子たちの精いっぱいの信仰告白にイエスは、「今ようやく、信じるようになったのか。」 あなたがたの神の理解には限界があると言う。 私たちの「分かった」と言う理解が、私たちの信仰を生み出していくのではない。 まだ起きていない出来事を前にして、「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時がくる。 いや既に来ている。」と言われる。 愛する弟子たちさえも、イエスを見捨ててイエスのもとを離れてしまう。 これが、私たちの現実、歴史的事実です。 イエス御自身も、私たちと同じ肉体を背負ってくださって、この限界と弱さを担ってくださったのです。 「しかし、わたしはひとりではない。 父が、共にいてくださるからだ。」 この父なる神との交わりなくして、この世の歩みを果たすことができないと言われるのです。 イエスは愛する弟子たちに対し、その信仰の不徹底を叱責されてはおられない。 むしろ、「あなたがたには世で苦難がある」と心配しておられる。 今、私が父なる神と共にあるという確かさによってしか、その限界と弱さを克服することができないように、あなたがたもまたこの私を通して父なる神との交わりに招かれている。 「勇気を出しなさい。 わたしは既に世に勝っている。」と愛する弟子たちに呼びかけておられるのです。 イエスがこの世を去るにあたって、この世の有限や弱さと、神の国の無限や真の強さの間にある、決して混じり合うことのない峻厳なる事実が、私たちに恐れと絶望を引き起こすのかもしれない。 「しかし、勇気を出しなさい。 神ご自身が自ら、神の世界のものとこの世のものが混じり合うことのないことをはっきりと知らせる時が来た。 恐れることはない。 一緒に神ならぬものから解放されて、父なる神のもとに戻って行こうと招いてくださる呼びかけを聴く体験が与えられているのです。