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「神のもとへ帰る者」 ヨハネによる福音書7章25~36節

2024-07-14

「仮庵祭」に、イエスは人目を避けるようにしてエルサレムに上って行かれました。 ユダヤの人々はイエスに大変関心があり、「良い人だ」と言う者もいれば、「群衆を惑わしている」と言う者がいた。 彼らは、メシアであることを証明する「しるし」をイエスに求めていたのです。 その出身地についても大いに関心をもっていました。 自分自身の知識、判断、理解によって、「果たしてイエスはメシアであろうか」と見極めようとするのです。 神殿の境内で、「わたしの教えは、自分の教えではない。 わたしをお遣わしになった方の教えである。 わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」と教えていたイエスは、諸々の人々の声を聞いて大声で叫ばれたのです。 「あなたたちはわたしのことを知っている。 また、どこの出身かも知っている。」と十分承知のうえで、「わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとから来た者である。」と繰り返し、「あなたたちは、わたしをお遣わしになった方を知らない。 しかし、わたしはその方を知っている。」と、自分の築き上げたものに縛られている無知と頑なさを指摘されるのです。 「そんなことは知っている」と言う者に、「あなたがたは知らない」とイエスは言われるのです。 大切なことは、イエスご自身がメシアであるかどうかという見極めよりも、イエスご自身を遣わされたお方を知ることです。 そのお方が、この地上に人としてイエスご自身を遣わされたことを知ることです。 私たち人間は神のもとにある。 その象徴であるイエスご自身を、神が人として遣わされたことを知ることであるとイエスは一言で言い表されたのではないでしょうか。 一方、祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエスを捕らえようとします。 自分たちが今まで苦労して築き上げてきたものを破壊しようとする存在として、イエスを断じて受け入れることも納得することもできない。 放置しておいては、自分たちの身が危うくなると恐れを感じ取ったに違いありません。 「イエスを捕らえるために下役たちを遣わした」とあります。 神殿警備の兵士たちのことです。 彼らは上司から命令を受けているのですが、ここではイエスを捕らえるまでに至っていない。 聖書は、「イエスの時はまだ来ていなかったのである」と一言で説明しています。 しかし、この後45節以下には、「祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻ってきたとき、どうして、あの男を連れてこなかったのか」と当然のように問い詰めます。 これに対し下役たちは一切言い訳を言わず、「今まで、あの人のように話した人はいません。」と、その威厳とも言うべき何かを感じたと答えるのです。 イエスの語る言葉の中に、ただならぬものを感じた下役たちの言葉と、「お前たちまでも惑わされたのか」と懸命に自分たちを守る「祭司長たちやファリサイ派の人々」の語る言葉の違いを見つめさせられるのです。 動機はどうであれ、経緯はどうであれ、イエスとの出会いは至るところで起こされているのです。 刷り込まれたもの、自分を縛るものに邪魔されて、その出会いを無駄にしてしまっている。 イエスは、「今、しばらく、わたしはあなたがたと共にいる。 それから、自分をお遣わしになったお方のもとへ帰る。 わたしのいるところに、あなたがたは来ることができない。」と、私たちに与えられている時間は、「今、しばらく」だけだと言われる。 今、目の前に出会ってくださっているイエスが、それに気づいて受け取り味わうようにと招いておられるのです。 「どこから来たのか」から「どこへ行くのか」、人として神のもとへ帰っていく生き方を、ご自身の生き方を通して語っておられるのです。 その都度、新しい命のみ言葉となって、私たちの心に響き、そのみ言葉が原動力となって、私たちを突き動かすのです。 そこに、喜びと希望が起こされ、確信と感謝が与えられるのです



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