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「神に取り分けられる者」 ヨハネの手紙一1章1~10節 

2024-07-21

 エルサレムが崩壊した後、小アジア地方に逃れた使徒ヨハネたちの群れはエフェソを中心にいくつかの教会を生み出したのです。 その共同体の信仰の告白がヨハネによる福音書で、他の三つの福音書とは異なる独特の信仰告白です。 そして、ギリシャ人たちの間に拡がる「イエスは人間であり神ではない。 イエスの復活などあり得ない。」という信仰的動揺に書き送られたのが、今朝の聖書箇所のヨハネの手紙でした。 ヨハネによる福音書も、ヨハネの手紙も、エフェソの教会の中心人物であった長老ヨハネによる執筆であったと言われています。 イエスの死による罪の贖いとよみがえりを真っ向から否定する者たちとの信仰の戦い、ヨハネの共同体の分裂の危機を、この短い手紙の行間から垣間見ることができます。 ヨハネによる福音書冒頭の「初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。 万物は言によって成った。 言の内に命があった。 命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。 暗闇は光を理解しなかった。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」 この簡潔な信仰の告白が、ヨハネの共同体の分裂を阻止したのです。 使徒ヨハネ自身もまたガリラヤの漁師からイエスと出会い、招かれ、導き出され、イエスを通して愛なる神、光なる神に出会い、その光に照らされて神のご愛、恵みの深さと豊かさに気づかされたからこその信仰告白ではなかったかと思わされるのです。 この手紙が証しし伝えたいものは、「初めからあったもの」、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触れたもの」、「命の言」だと言うのです。 旧約聖書の時代には、「見たかったが見ることができず、聞きたかったが聞くことができなかった」命の言を、今や、私たちの見える形で、聞くことができる形で「現れた」と言う。 最初からあったもの、私たち人間が見失ったものが、イエス・キリストの贖いの言葉、注がれた血、裂かれた体によって、再び見える、聞こえる、触れることができるようになった。 それは、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」をもつため、イエス・キリストの新しい命を分ち合ってもつためだと言うのです。 そして、「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」だと言います。 イエスの喜びが私たちの内に満たされ、私たちの喜びがイエスの喜びとなる。 失われた迷える子羊、悔い改める罪人が見出されること、滅びゆく魂が神のもとに帰っていくこと。 これが天の喜び、父なる神の喜び、イエスの喜びだと言うのです。 その糸口が私たちの人と人との交わりで、この交わりを通して神とイエスとの交わりにつながれていく。 神の民がそこに築き上げられるのです。 また、「神は光であり、神には闇が全くない。」 「命は人間を照らす光であった。 光は暗闇で輝いている。 暗闇は光を理解しなかった。」と言います。 「罪」とは、神のもとから離れてしまっている状態を言います。 光は、この「罪」を照らし私たちを招いているのでしょう。 そのような状態であるのに気づきもせず、「暗闇はその光を理解しなかった」のです。 私たちに求められているのは、自分の姿を見つめること、それを公に言い表すことだけなのです。 「清められる」とは、この世にない神のものとして取り分けられることです。 罪に気づいて、罪に悔いるところには、その赦しがあるのです。 「罪が増すところには、恵みはなおいっそう満ちあふれる」のです。 その汚れを拭い去ってくださるイエス・キリストの十字架の恵みの深さ、豊かさを知り、恵みに恵みを増し加えられ、神のもとにたどり着くまで私たちは成熟させられるのです。



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