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「確信する信仰」 ヘブライ人への手紙10章19~25節 

2024-07-07

 主イエスは、「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます」(1:3)とあります。 私たちはこの主イエスなしに父なる神を知ることはできません。 自分の力だけでは、神のもとに近づくことができないのです。 主イエスの恵みの働きによって開かれた、神のみ前に近づくことが赦された「礼拝」をささげ続けることです。 み言葉に聴き、祈り、交わりによって、生活の中で、人生の歩みの中で味わうことです。 そのみ言葉に立って生きることです。 神の働きに用いられるなら、主イエスを味わい、父なる神を知ることができるのです。 この手紙は、ひるみ始めた教会、信仰を守ることに疲れた教会に対して送られた「慰めの言葉、励ましの言葉、勧めの言葉」なのです。 先ず、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」と言います。 その理由を、「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」からだと言うのです。 ここで言う「聖所」とは、エルサレム神殿の奥の大祭司しか入れないところ、入り口には「聖なるもの」と「俗なるもの」を分け隔てる「垂れ幕」がある。 そこに主イエスの血が注がれ、体が裂かれ、今や招きの「垂れ幕」となり、そこを通って入るよう備えられている。 この言葉に、手紙を書き送られた教会の人々はどんなに励まされたことでしょうか。 「神の家を支配しておられる偉大な大祭司がおられるのですから」、このお方の憐れみとご愛に満たされて、神のもとに立ち帰って生きる道が備えられていることを「確信しています」と言うのです。 私たちは自分自身の中に確信の根拠を求めてはならない。 すべては、主イエスの働きによって確信させられるのです。 もうひとつの勧めの言葉は、「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。 互いに愛と善行に励むように心がけ、励まし合いましょう。」とあります。 「公に言い表した希望」とは、神さまによって与えていただいた、言い表された信仰ということでしょう。 「互いに愛と善行に励むよう」とは、心を揺り動かされてそうせざるをえないようにされてということでしょう。 一人に対する主イエスの働きが、「神の家」全体の働きへと伝播していく。 当時の「集まる」という意味合いがとても重要だったのです。 「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」とあるように、主イエスがこの地上に来てくださったことを思い起こす大事な場所が「集まるところ」であったのです。 私たちが集まり、礼拝するところこそ、大祭司イエス・キリストの招きのあるところ、生きて働いておられる主イエスとの交わりのあるところなのです。 この聖書箇所の後の35節から38節にかけて、「だから、自分の確信を捨ててはいけません。 この確信には大きな報いがあります。 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。 わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」とその理由が力強く語られています。 そのうえで、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(11:1)と言います。 この言葉も、信仰を持ち続けることに疲れている教会に対して語られた「慰めの言葉、励ましの言葉、勧めの言葉」であることを決して忘れてはならないのです。 この「確信する」という言葉は自分の信念のような主観的なものではありません。 信仰によって、見えていない事実について確かな証拠を与えて頂く。 神によって約束され、備えられている「望まれた事柄」が、私たちに希望の力を生み出してくれるのです。 私たちが尋ね求めているものではなく、神が「望まれている事柄」によって私たちが確信させられるのです。



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