「み言葉に従った旅立ち」 創世記12章1~4節
神さまは、『あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。』と言い、アブラハムは「この主の言葉に従って旅立った。」と言います。 神さまの命令は、アブラハムの思いのままではなく、神が遣わされるところに行けということでした。 この世のものに執着せず故郷を捨て、ただ神に従って歩むということでした。 神さまの約束だけを頼りに神と共に旅立ち、新しい一歩を踏み出したのでした。 アブラハムは、神のみ心が告げられる喜びを知った。 それに応えていこうとする信仰が起こされる恵みを受け取った。 そのために捨てる苦しみや失われる悲しみも、新しく変えられる喜びとして受け取ったのです。 この旅立ちによって、アブラハムはやっとの思いで手にすることのできた約束の息子イサクを神さまにささげるまでに信仰が与えられた。 自身の心の確かさに依り頼む信仰から、神さまの約束の確かさに依り頼む信仰に変えられていったのでした。 自分の力や考えで進めていくのではなく、父なる神に聴き、祈り、神に与えられたものを受け止めていく新しい道に踏み出したのです。 しかし、途中で信仰に挫折もし、食糧を目指してエジプトにまで足を延ばしてしまい、人を恐れ、人間の知恵をもって動き失敗もしています。 そうであるにもかかわらず、神さまの約束は果たされていくのです。 アブラハムは妻のサライと甥のロト、蓄えた財産すべて携えて、途中で加わった人々と共に約束の地に入りました。 このアブラハムと共に出発した民によって、信仰の民がつくり出され、祝福の源となっていったのです。 それは、神さまの選びという働きから始まり、備えられていったものでした。 互いに分かち合い、神さまの民としてひとつとされ、恵みにあずかった者が祝福の源となり、新しい神の民がつくり上げられたのです。 イエスもまた、神さまに祈り思いを受け止め、愛する弟子たちを選び、送り出し、信仰の民をつくり出されたのでした。 イエスは使徒を選ぶために、山に行き、徹夜の祈りをされています。 神さまの子どもであるにもかかわらず、私たちと同じように祈らなければ父なる神のみ心を知ることができない存在となってくださったのです。 このイエスの祈りによって選ばれた使徒たちもまた、神さまの呼びかけによって選ばれ、新たな信仰の旅が始まったのです。 選ばれた使徒たちがイエスのみ言葉によって遣わされていくところに、神さまの民が起こされていく。 祝福の源がつくり上げられる。 その土台は、神のみ言葉とみ心そのものであるイエス・キリストです。 それに応える礼拝が起こされるところに、信仰の民がつくり上げられていったのです。 私たちはいろいろな出来事に出会い、右往左往しながらおのれの弱さや傲慢さや喜びや悲しみを通して神さまに生かされていることを知るのです。 旧約聖書の冒頭に、「初めに天地を創造された。」 そして、第七の日に神さまは創造の働きを終えて「極めてよかった」と、その完成を喜ばれ安息なさいました。 その安息の中に私たちが憩うことが赦され約束されているのです。 私たちはこの神さまの安息日に身を委ねるようにと招かれているのです。 私たちの生活は、この神さまの安息の礼拝から始ります。 神さまの選びによって、神さまの祝福に招いてくださっているのです。 礼拝への出席は、この世に縛られることなく神さまのみ前に進み出ることです。 そこから遣わされて生活の中で神さまに用いられていく、そのための旅なのではないでしょうか。 神さまが遣わされたところに行きたい。 アブラハムが旅に出発したのも、人となったイエスの祈りによって呼びかけられた使徒たちが遣わされたのも、神さまの呼びかけに応えることから始まっています。 神さまによって与えられる信仰の旅を、今ここから始めたいと願っています。