「選ばれ任命された者」 ヨハネによる福音書15章11~17節
「あなたがたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたがたを選んだ。」とあります。 私たちが神を尋ね求め見つけ出すのではない。 神の方が選ぶ目的と理由があると言うのです。 「選ばれた者が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしが任命したのである。」と言うのです。 だれが見ても恵まれた人生を送っている人にも、また、不運としか言いようのない経験の連続の人生を歩んでおられる人にも、衝撃的なみ言葉ではないでしょうか。 私たちが耳にし、目にする人生の苦悩のほとんどが、理由のない理不尽なものです。 その理由が分からないので納得がいかないのです。 しかし、よく考えてみれば、もうひとつの不条理があることに気づかされます。 神の前に何ら誇ることのできない、過ちだらけの私たちが、理由もなく無条件に赦される道がある。 ありのまま、泥だらけの身のままで神のもとへ迎え入れられる道があると言うのです。 このもう一方の不条理に真っ向から立ち向かい、自分たちの築き上げた基準に合っていないとイエスに襲いかかったのが律法学者たちでした。 旧約聖書の時代には、ある日突然、神の前に選び出され、任命された預言者たちが多々ありました。 彼らは例外なくしり込みをします。 しかし、神の呼びかけに応えることを繰り返すことによって、神とその人との交わりがつくり上げられ、次第に神によって生かされていることを知るようになり、神のご計画があることを知らされます。 その計画を果たすために、自分が用いられようとしている、つくり変えられようとしていること、自分一人のためではなく神の民を築き上げるための務めであることに気づかされるのです。 それ以降は神との特別な関係に入れられ、その都度、神の助けを必要とする者になるのです。 事の大小は異なりますが、私たちと神との出会いもまた、同じであるように思わされます。 続いて、神の選び、任命という働きは、「神さまの愛によって」行うと宣言がなされます。 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。 これがわたしの掟である、命令である。」と言います。 イエスはご自身に注がれたご愛を無条件のまま、自らに襲いかかる者に対しても注がれたのです。 イエスは、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」 そうすれば、イエスの喜びが、私たちの内にとどまり、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためである。 イエスに連なる歩みに生きる者に与えられる喜びがあると言います。 イエスの言われる「喜び」とは、外側から訪れる喜びではなく、内からわき出てくる喜びです。 イエスはもうひとつ、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」と重大なことを伝えています。 イエスは、これから果たされていくご自身の十字架の死を語るのです。 このために私たちを選び、実がなるように任命される。 その実は、互いに愛し合う実である。 「互いに愛し合う」という掟が守られることを、イエスご自身が十字架を通して約束してくださっているのです。 愛と喜びの完成を約束されたイエスが、その友たちによってご自身の掟が守られる道を備えてくださるのです。 「自分の命を捨てる」とは、イエス・キリストとの交わりに生きることです。 父のもとで聞いたことすべてを知らせたから、「僕」ではなく「友」だと言うのです。 神の僕として選ばれ、替えがたい務めを与えられ任命される者である。 神のご愛を注がれ、喜びに満たされる者である。 神のみ心を知っている僕、愛されている僕、イエス・キリストとの交わりに生かされ、そのとりなしに支えられている僕。 その僕が、父なる神によって注ぎ出されたご愛をイエス・キリストを通して味わい、その解放と自由に生かされてイエスの友となるのです。