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「自分を神としてはならない」 ヨブ記2章1~10節

2024-06-16

 ヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と言います。 10人もの子どもに恵まれ、家畜もおびただしい数を有し、使用人も非常に多かったという富豪でした。 そこにサタンという存在が登場し、ヨブが手にしているすべての「財産、家族」などに対する挑戦を受けるのです。 ここではサタンを、「神のもとから私たちを引き離そうとするこの世のすべての力、この世においてのみその存在を許されているもの」と捉えておきましょう。 次々と財産を奪われ、家族をも失われ、その苦しみと悲しみの只中にあるヨブの言葉です。 「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。 主の御名はほめたたえられよ。」(1:21) ヨブ記は、「このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。」(1:22)と言うのです。 神の祝福とも思えるヨブの財産、家族一切を取り上げるサタンの挑戦に微動だにしなかったヨブの姿を見て、神はサタンに向けて「わたしの僕ヨブに気づいたか。 地上に彼ほどの者はいまい。 彼はどこまでも「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」と言います。 すると、サタンは、「人は命のためには全財産を差し出すものです。 彼の命が奪われる恐れがあるなら、たちまち神に向かってヨブは呪うに違いない。」と迫ります。 サタンは神の赦しを得てヨブに手を下し、「頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。」と言います。 誰が見ても哀れな姿です。 ここに至って愛する妻からも、「どこまで無垢でいるのですか。 神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」とまで言い放されるのです。 それでもヨブは、「お前まで愚かなことを言うのか。 わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と答え、ヨブ記は「このようになっても、ヨブは唇をもって罪を犯すことはなかった。」と言います。 ここまで語るヨブの真意を受け取ることなく、親しい友人はまるで因果応報かのように「自らの過ちを認めて神のもとに立ち帰るように」と諫める。 ヨブは災いとも思える出来事が度重なっても、決して揺れ動くことなく神との交わりを求めたのです。 なぜ、この身の苦しみが与えられているのか、その理由を知りたかった。 そう祈り求めたのに、神ご自身が一向に応えてくださらない。 この神の沈黙にヨブは耐えきれなくなり、落胆し、破れてしまうのでした。 神は前もって「わたしの僕」としてヨブを選び出したのです。 人間に支配できない存在を用いて、ご自身を深く知らせ、「わたしの僕」にふさわしく整えてくださるのです。 神は一対一で「わたしに答えてみよ」と突然語り始めます。 ヨブが弁え知ることなどほんの一部であることを厳粛に示し、問うヨブが逆に神に問われる者となるのです。 ヨブが、神の選びに応える信仰の深みに至るためでした。 真剣に問いかける者は、神に一対一で問われる者となるのです。 これこそ、神に愛されているということでしょう。 ヨブは、神が与える苦しみの解決を願っていたのではない。 苦しみの意味を求め、神との直接の交わりを願っていたのです。 ヨブは自身の無知と思い違いを知らされ、神を知ること、全能者の恵みの世界を味わうことが真の安らぎへの招きであることを知らされるのでした。 ヨブが神に問われる者となって沈黙し耳を傾ける時、新しい道が開かれていくのでした。 神の御心には、人間が測り知ることのできない大きさ、広さ、深さ、高さが横たわるのです。 ヨブは自らの貧しさ、弱さ、乏しさを知らされ、神を深く知るため、神の僕にふさわしく整えられていくのでした。 神は私たちに、神のもの、永遠なるものを与えようと、時には過ぎ去っていくものを失わせ、私たちの目を開かせようとするのです。 このお方の力と知恵と憐れみが私たちにも注がれていることを喜び感謝し、身を委ねて参りたいと願います。



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