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「イエスが与える安らぎ」 マタイによる福音書11章25~30節

2024-06-09

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。」 何とも言えない安らぎが響きます。 イエスは、「律法学者たちは、言うだけで、実行しない。 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」(マタイ23:3-4)と批判しています。 私たちが生きていくことに伴う疲れや重荷というよりは、「律法の重荷」についてイエスは語るのです。 本来、律法は神と人、隣人どうしの人格的な関係に基づいています。 その律法に記されている文字だけが独り歩きし、正しさを測るものさしに貶められ、自分を誇り他者を裁く「律法主義」がまかり通っているのです。 「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」とイエスは言います。 「これらのこと」とは、イエスが今まで語って来られた福音の奥義です。 福音の奥義は、人間の知恵によって受け入れられるものではなく、与えられた信仰によって示されるものである。 律法の重荷によって覆われていたその只中に、この福音の奥義が明らかにされた。 「これは御心に適うことでした。」とイエスは言います。 この世の知恵ある人たちからみれば、「幼子のような者」とは、未熟な者、無知な者、力の弱い者ということになるでしょう。 なぜそのような人たちが選ばれたのかと言いますと、「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためである。」と言います。 神はこの世の知恵を愚かにし、宣教という愚かな手段によって信じる者を起こされるのです。 イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのである。」と言われるほど、神を示す務めがご自身には与えられている。 「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者の他には、父を知る者はいません。」と言われているように、「父なる神と子なるわたし」という関係にあり、「すべてのことがわたしに任されている。」と言うのです。 父なる神と子なるイエスの関係のように、イエスに結ばれる者は神の子とする霊を受け、神の子となる。」(ローマ8:15)のです。 この父なる神の一方的な恵みのゆえに、神の子として引き上げられる。 イエスを信仰により受け入れた「幼子のような者」は「もう二度と、奴隷の軛につながれてはならない。」と、律法の重荷を負っている人たちにイエスは語るのです。 本来、律法の重荷は取り去られるものではなく、神のご愛に支えられて負うべき重荷です。 私たちが正しく負っていないと言われるのです。 そこでイエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」と言われます。 イザヤ書53章が預言した「苦難の僕」のとおり、イエスご自身が父なる神の御心という重荷を黙って負ってくださって、父なる神との交わりが保たれたから、イエスに従う者もまた御心に適う重荷を負うことによってイエスご自身との交わりが保たれるのです。 そのイエスが、「わたしの軛は負いやすい。 わたしの荷は軽い。」と言われているのです。 自分を縛り付ける重荷を降ろし、イエスの軛に取り換えるようにと言われる。 「軛」とは、二頭の牛が一つの軛でつながれて共に重荷を負い合うものです。 律法の軛というその重荷を取り換えて、イエスの言う軛を一緒に負うようにと言われているのです。 重荷が与えられていることが神に愛されているということです。 神は耐えきれない重荷を負わせられるはずがありません。 このイエスの軛、神の御心に適う重荷を負うことが、イエスを知ること、学ぶことになると言われる。 イエスが父なる神との交わりを持たれたように、私たちもまたイエスに結ばれ交わりを保ち、イエスがこの地上の道のりを歩まれた道を一緒に辿っていくと、神の恵みにより神のもとへ引き寄せられ、神の子となるのです。 「イエスが与える安らぎ」とは、神が備えられた道をイエスと共にイエスの軛を負って歩んでいくことではないでしょうか。



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