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「約束された神の安息」 ヘブライ人への手紙4章1~11節

2024-05-12

 この手紙が記された時は、ローマ帝国の激しい迫害が現実のものとしてイスラエルの民に迫ってきていた。 主なる神に替わって「ローマ皇帝」への崇拝を強要されていた。 教会の中では、慣れ親しんだユダヤ教の世界へと逆戻りしようかという誘惑に耐え切れなくなってきていた。 新しい福音のみ言葉に対する誤解などが相俟って確信がもてなくなっていたことが背景にあります。 外的な迫害や内的な動揺が広がり、初期のキリスト者たちの救われた喜びが薄れ、信仰の力が弱まってきて、この手紙の言う神の民への勧めの言葉が必要となってきていたのです。 ダビデは、詩篇95編で主に向かって救いの喜びの叫びを挙げています。 主なる神は大いなる神である、すべてのものを創りすべてを支配しておられると神への信頼と賛美を歌っています。 そのうえで、「わたしたちを造られた方 主の御前にひざまずこう。 今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」と言うのです。 かつてのように、「心を頑にしてはならない」、先祖たちのように「神を試してはならない」、神の道を知ろうとしなかった信仰のゆえに「彼らは神の安息の地に入ることができなかった」と歌っています。 この手紙の著者はこのダビデの詩を引用して、イスラエルの民の過ちをもう二度と繰り返してはならない。 約束の地カナンに入ることのできなかったことに目を向けさせ、「神の安息にあずかることができなかった者がいる。 取り残されてしまったと思われる者がいる。」 かつて語られた「神の安息にあずかる約束が、今もってまだ続いている。」 だから、「そうならないよう、告げ知らされた神の約束の言葉に信仰をもって結び付くように。」、「生ける神から離れてしまう者がいないように」、「誰一人、罪に惑わされてかたくなにならないように」、「最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるように」、「注意しなさい」、「今日という日のうちに、日々励まし合いなさい」、「イエス・キリストに連なる者となりなさい」と強く勧めるのです。 そして、「信じたわたしたちは、この神の安息にあずかることができるのです。」と確信をもって宣言するのです。 約束の地カナンにおける安息と、天地創造の七日目の神ご自身の安息をもって、私たち「神の民の安息」の約束を語るのです。 「神の業は天地創造の時以来出来上がっている。」 神の民の一時的な不信仰があったとしても、未完成のままの安息に止まったとしても、神ご自身が休まれた安息は今もって残っている。 失われることはない。 神の言う創造には、働きと休みが必要である。 その休みこそ、すべてよしとして神が造られたものに対して祝福された大事な時である。 その創造主である神ご自身の安息と、被造物である私たちに対する祝福が注がれなければ、神ご自身が望まれるこの世にないものへとはなっていかない。 始めの時にすでに神によって「神ご自身の安息」の約束は始まっている。 受ける側の私たちの状況によって、私たちの信仰の状態によって左右されるようなものではない。 それは変わることがない。 失われることなく残されている。 天地創造の際にも、モーセやヨシュアの時代にも、また詩編95編を歌ったダビデの時代にも、そして今、私たちが生かされ、イエス・キリストを通して福音が告げられ、神ご自身がイエスによって直に表された後にも、この「神の安息」の約束は生き続け、私たちの信仰の応答によって時々刻々深められ、神の前に進み出る神の民に備えられている。 私たちはこの地上において、すでにこの真の「神の安息」のもとで時々刻々引き寄せられているのです。 この「神の安息」こそ、新しい創造の場への変わらない一貫した神の招きではないでしょうか。 「今日」という日のうちに、この残されたものを受け取り損ねないようにということでしょう。 私たちもまた、神の祝福を豊かに浴びるために自分の業を止め、今日という時をもちなさいと勧めるのです。 



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