「渇いて待っておられる主イエス」 ヨハネによる福音書4章7~15節
イエスは弟子たちを連れて再びガリラヤへ行かれます。 ユダヤ人はサマリア人と挨拶さえもしなかったと言いますから、その通り道としてサマリアを避けるのが常でしたが、聖書は「サマリアを通らねばならなかった」、サマリアを通る理由があったと言うのです。 弟子たちは町へ食べ物を買いに出かけ、イエスだけがサマリアの町の井戸端に「旅に疲れて座っておられた。 正午ごろのことである。」と言います。 そこに、ひとりのサマリアの女性が井戸の水をくみに水がめをもって来たのです。 何のためらいもなくイエスはこの女性に、「水を飲ませてください」と語りかけ、イエスとサマリアの女性との対話が始まります。 公の場の風習としてありえない男女を越えた、人種を越えた対話です。 「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてくださいと頼むのですか」という彼女の問いに、「水を飲ませてくださいと言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人は生きた水を与えたことであろう。」とイエスは返すのです。 女性が井戸に水をくみにくるのは朝の早い時間帯か夕方の涼しい時間帯で、「正午ごろ」とはだれも井戸には立ち寄らない時間帯です。 町の女性たちとの交わりをわざわざ避けてこの井戸に立ち寄ることを見透かし、イエスは待っていたかのようです。 彼女はこの言葉を聞いて、話しかける人物がただならぬお方であることに気づき、「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。 どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」と聞き直します。 この呼びかけにイエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。」と言われる。 このイエスの返答に彼女は、「主よ、渇くことのないように、ここにくみに来なくてもよいように、その水をください。」と思わず答えるのです。 彼女の魂の奥底にある叫びを、イエスはご存じで引き出されたのです。 そこで初めてイエスはその女性に、「あなたの夫をここに呼んできなさい」と唐突に言います。 五回の結婚歴があり、現在でも夫ではない人と連れ合っていることを言い当てられ、驚いた女性は「キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」という精いっぱいの信仰が引き出されます。 イエスはその女性に、「それはあなたと話しているこのわたしである」と宣言されたのでした。 そこから彼女の行動に劇的な変化が生まれ、「水がめをそこに置いたまま」、今まで交わろうともしなかった町の人々に対して突然に「語り出す」のです。 「わたしが言ったことをすべて言い当てた方がいます。 この方がメシアかもしれません。」 この女性の証言が、サマリアの町の人々をイエスのもとに引き寄せ、「自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かった」という信仰に導かれるのです。 この有様に町から戻ってきた弟子たちは驚かされ、イエスは「わたしには、あなたがたの知らない食べ物がある。 わたしをお遣わしになった方の御心を成し遂げることである。」と、これから人々を牧する者となる弟子たちに宣教の務めを諭されたのです。 イエスの宣教は一対一の対話から始められ、「生きた水を与えることのできるイエス」なのに、「この世の水を求めるイエス」となって呼びかけてくださるのです。 この井戸端に疲れたまま座っておられるイエスの姿こそ、十字架の上のイエスに重なります。 人々の嘲りの中に、一人の人間以下の姿に成り下がったイエスです。 イエスの最後の姿をこの福音書は、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。 こうして、聖書の言葉が実現した。」と証言するのです。 一人の女性を救うために、イエスは哀れな姿をさらして待って、救いの道に導かれたのです。 その彼女の証言とふるまいが、多くのサマリアの町の人々を礼拝に招いたのです。 イエスはご自身の宣教を、後を継ぐ弟子たちに直に示されたのです。