「神にすべて差し出す礼拝」 マルコによる福音書12章38~44節
「律法学者を非難する」という段落と「やもめの献金」という段落が続けて記されています。 いよいよ十字架に架けられる直前のイエスに、律法学者たちは様々な論争をしかけるのです。 そのような論争に終止符を打つかのようにイエスは、この何気ない二つの小さな段落をもって論争の根本的な問題を浮き彫りにして語り終え、もはや論争ではなく裁判、処刑、殺害の十字架の現実へ進むのです。 今まで群衆や律法学者たちに向けて語られていたところから一変して、イエスは愛する「弟子たちを呼び寄せて」、「律法学者たちの姿」と「一人のやもめの姿」を対比させて語るのです。 「律法学者たちの姿」とは、人に認められること、尊重されること、敬われることを目に見える形で受け取ることを望んでいる姿、立ち振る舞いです。 内側のものを覆い隠すかのように外側のものを取り繕うとする。 神との交わりが形だけに終始し、真の礼拝や賛美や祈りにつながらない。 そのことによって周りの神の民とのつながりさえも損なわれてしまう。 これこそ、私たちの現実の姿なのではないでしょうか。 人の心の内側と外側は密接につながっている。 心の中にあるものが外に向かって溢れ出てくる。 心の中にいったい何が宿って、その人の心を支配しているのかをイエスはじっとご覧になって鋭く見抜いておられるのです。 この賽銭箱を前にした「一人のやもめの姿、立ち振る舞い」から、その心の中から満ち溢れ出てきているものこそ、神への信頼と感謝である、真の礼拝であるとイエスは見て取ったのです。 これから父なる神の前に自らの命を差し出す決断をして、エルサレムに歩んで来られた「イエスご自身の姿」が、この「一人のやもめの姿」に折り重なって目に留まったのではないでしょうか。
同じような光景をマルコによる福音書(14:3-9)は語っています。 イエスが多くの人々と一緒に夕食についていた時です。 一人の女性が、「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺をもってきて、それをその場で壊し、その香油をイエスの頭に注ぎかけた」と言います。 「ナルドの香油」とは、当時の一年分の賃金に匹敵する価値があったと言われています。 「なぜ、こんなに高価な香油を無駄遣いしたのか」と叱責する席についていた人々にイエスは、「するままにさせておきなさい。 わたしに良いことをしてくれたのだ。 わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この人はできる限りのことをした。 前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれたのだ。」と言われるのです。 イエス自ら進んでこれから受けられようとしている「十字架の痛み、死」に与る時がくる。 イエスはこの一人の女性が「この時、このところ」でしかできないことをこの私にしてくれたと、その苦しみを共に味わおうとする女性の姿をそのまま受け取っておられるのです。 イエスは、ご自身の存在を父なる神のみ心の前にすべて差し出そうとしておられる姿を、「一人の貧しいやもめの姿」の前に愛する弟子たちを呼び寄せ示しておられる。 神の前にすべてを差し出して、感謝と賛美と喜びの真の礼拝をささげるようにと招いておられるのです。 私たちがご一緒にささげている礼拝は、今日限りの唯一の礼拝であるはずです。 ずっとイエスが見つめておられる礼拝です。 これから十字架につこうと決心しておられるイエスに、できる限りのすべてのもの、「一人のやもめ」は持っているわずかな価値のレプトン銅貨二枚、一人の女性は石膏の壺に入った高価な香油をそれぞれにふさわしくすべてを真の礼拝としてささげたのです。 私たちに注いでくださる賜物、恵みこそ、神に感謝と賛美と喜びをささげるためのものです。 神の救いのご計画のために豊かに用いられるためのものです。 私たちは「一人の貧しいやもめ」のごとく、真の礼拝に招かれているのです。