『働きとしての神』 創世記32章23~30節
母リベカの胎内で双子の赤ちゃんが互いに押し合っていた。 弟ヤコブは、「兄エサウのかかとをつかんで生まれた」と言います。 抜け目のない弟ヤコブは、父親からの祝福に執着します。 無頓着な兄エサウは疲れ切って腹をすかしていた時に、「お兄さんの長子の権利を譲ってください」という弟ヤコブの企みに、わずか一皿の煮物と引き換えに簡単に引き渡してしまうのです。 父イサクの目がかすんでいたことを利用して、エサウが受けるはずの神の祝福までも、周到に準備しヤコブは騙し取るのです。 このヤコブの企みを後で知ったエサウが怒り、ヤコブを憎むようになったのです。 この事を察知した母リベカに、「叔父ラバンのところに逃げ、兄エサウの怒りが収まるまで身を置きなさい。」と言われて、ヤコブは杖一本だけをもって故郷カナンを逃げ出した。 叔父ラバンのもとで20年間働き、小さな族長のような富と地位を得るまでになったヤコブは、叔父ラバンに「生まれ故郷へ帰らせてください」と訴えるのでした。 叔父ラバンには騙され続け、ラバンの息子たちには父ラバンの財産をかすめ取っていると誤解され、ついに意を決して逃げ出したその途中の出来事が今朝の聖書箇所です。 ヤコブには忘れることのできない過去の過ちがあり、兄エサウに出会うことが恐ろしくてなりません。 用意周到に兄エサウへの配慮を施しながら、一切の持ちものを差し出してヤコブは川を挟んでひとり残り祈り続けるのです。 「わたしは、あなたの慈しみとまことを受けるに足りない者です。 かつてわたしは、一本の杖を頼りにこの川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。 どうか、兄エサウの手から救ってください。 あなたはかつて、必ず幸いを与えると言われました。」 権利と祝福を得る為なら手段を選ばないかつてのヤコブの姿とは異なります。 今まで神からの祝福と思わされたものすべてを差し出して、主なる神に委ねようと待っている祈り。 ただ独り窮地に追い込まれて神の呼びかけを求めている祈り。 一方で、兄エサウに対する恐れからくる自分自身との戦いの祈りです。 「そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」と言います。 ヤコブにとって予期しない相手の分からない出会い、ヤコブの祈りに答える神の働きです。 「ヤコブの腿の関節がはずれた。 腿を痛め、足を引きずっていた。」と言いますから、自ら打ち砕くことのできないヤコブの自我が神によって打ち砕かれた。 今まで大切なものと思っていたすべてを、神が近寄ってきて、格闘し、砕いてくださった。 この「痛みの伴う神の祝福」は、ヤコブが新しく生まれ変わるためです。 神の祝福の中味が根本的に変えられたように感じます。 神は、「お前の名はヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。」と祝福するのです。 「かかとを握る者」という名から、十二部族の総称となる名が与えられたのです。 神から満たされる平安を求めて、神の御心を問い直すまでの激しい神との格闘の祈りです。 ヤコブはこの祈りの中で、約束を変えることのない神に出会い、砕かれ、かつての醜い姿を受け容れられ赦されたという平安と確信を得たのです。 自分の中にあった一切のものを差し出した、自分自身との戦いでもあった。 この後、「ヤコブは兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。 兄エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」と言います。 ゲッセマネでの主イエスの激しい祈りの原型、新しくされた人間の原型をヤコブの姿に、完成された人間の姿をイエスの姿に思わされるのです。 主なる神は「何者か」と思われるお姿を通して、あらゆるところであらゆるものを用いて、目に見えない働きをされているのです。 このお方に委ねてみませんか。