「近寄って来た人たち」 ルカによる福音書15章1~7節
当時のイスラエルの日常生活でのありふれた光景であった羊飼いの生き生きとした姿が、この譬えに映し出されています。 羊一匹たりとも傷つけられたり、養われなかったり、見失われることは、羊飼いにとって耐え難いことなのです。 ルカは「羊飼いが羊を見失う」と神の側から語り、マタイは「羊が群れから迷い出る」と人間の側から表現しています。 エゼキエル書(34:11-16)に、「見よ、わたしは自ら自分の群れを捜し出し、彼らの世話をする。 わたしは、自分の羊を探す。 ちりぢりになっている自分の羊を探す。 すべての場所から救い出す。 連れ出し、集めて、導く。 養う。 憩わせる。 わたしは、失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」と主なる神は約束され、様々な人を用いてこの約束を果たそうとされたのです。 ところが、神の民である羊の群れの世話を委ねられた羊飼いの務めを、イスラエルの指導者たちが果たしていないと、イエスはこの旧約聖書のみ言葉をまるで踏まえたかのように、「見失われた者」や「排除されている者」のところに足を運び、その友になろうとされこの譬えを語られているのです。 ルカは、この譬えを記す前に、どういう状況でこの譬えが語られているのか説明を加えています。 「イエスの話を聞こうと近寄って来た人たち」と「ファリサイ派の人々や律法学者たち」に対して語られた譬えであったと言います。 「イエスの話を聞こうと近寄って来た人たち」とは、皆「徴税人や罪人」ばかりであったと言います。 「徴税人」とは、ローマ帝国の威を借りて私服を肥やす人たち、嫌われていた人たちです。 「罪人」とは、悪いことをした人と言うよりは病気や職業のゆえに律法の戒めを守ることのできないでいる人たちのことです。 「ファリサイ派の人々や律法学者たち」とは、自分たちこそ厳格に律法の戒めを守っている人、神の祝福に与る資格のある正しい人と誇りを持っている人たちです。 「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」という彼らの批判に答えたのが「見失った羊」の譬えなのです。 「失われた者に対する神のご愛が、今ここに、すでにイエスと共にある」という喜び、「そのイエスによって失われた者たちが取り戻される」という喜びが語られているのです。 ルカはこの「見失った一匹の羊」を、「悔い改める一人の罪人」と言い換えています。 「野原に残された九十九匹の羊」を、「悔い改める必要のない多くの正しい人」と言い換えています。 悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない多くの人たちについてより大きな喜びが天にあると言うのです。 この「悔い改める」とは、「悔いて懺悔する」ということではなく、「立ち帰る、向きを変える」という意味合いです。 神の恵みに対する私たち人間の応答の姿です。 悔いや自責の念に閉じこもらないで、神の呼びかけを聴いたならその場に立ち上がり、踏み出し、神のもとに向きを変えて立ち帰るように。 神の恵みとしか言いようがない「賜物、約束」を喜んで受け取るように。 この恵みとご愛に満たされたところに、自らの身を投じ委ねていくようにという父なる神の御心が、今、ここに訪れている福音を語っているのです。 「罪人」とは、神のもとから離れていたことに気づいて、臆面もなく神のもとに立ち帰ろうとしている幸いな人のことです。 自らが神のもとを離れてしまっている「罪」の状態に気づくことができた人のことです。 神の恵みを体全体で知らされた人のことです。 神の呼びかけに諸手を挙げて立ち帰ろうと応答を示すことのできた人です。 「正しい人、自分に誇りを持っている人」と「罪人、神のもとに立ち帰ろうとしている人」を前に、「失われた者」を取り戻すことに父なる神の大きな喜びがあると語り、両方の人たちにそのことを伝えるために、イエスはこの譬えを用いて招いておられるのです。 父なる神は見失われてはならないと愛してくださっているのです。