「新しいことをする神」 イザヤ書43章16~20節
イスラエルの国は紀元前722年に滅亡し南北に分裂します。 分裂した北イスラエル王国は、アッシリアに滅ぼされ民は連れ去られる。 一方、南ユダ王国もまたバビロニアに滅ぼされ、民は連れ去られる。 その後、エルサレム神殿も破壊され、再び民はバビロニアに連れ去られ、イスラエルの民が帰還するまでの間、バビロニアに囚人として留められるのです。 その時主なる神は、イザヤという預言者を通して、神殿の崩壊も故郷からの離散も主なる神の呼びかけに聞こうとしない自らの過ち、自らの歩みの結果であるとイスラエルの民に促すのです。 イスラエルの民は、それでも主なる神に選ばれた民としての誇りがあった。 かつて自分たちの先祖がエジプトから救い出されたように主なる神は必ず助けてくださると、その救いの出来事の回顧に浸り、「目があっても見えぬ民、耳があっても聞えぬ民」となってしまっていたのです。 過去の栄光に縛られ、今もってその時の再来を強く求めるイスラエルの民の、自分たちの姿を見つめ直そうとしない姿に失望した主なる神はイザヤを通して語るのです。 そのような不信仰の民であるにもかかわらず、主なる神は「恐れるな」と繰り返し語ります。 その理由を三つ述べています。 「恐れるな。 わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの。 わたしはあなたの名を呼ぶ。」と言います。 「贖う」という言葉は、「代価を払って買い取る」ということです。 バビロニアからイスラエルの民を解放し故郷に帰還させるために、バビロニアを倒すペルシャの王に代償を与えてイスラエルの民を買い取り、あなたがたを故郷へ連れ帰ると約束するのです。 新約聖書の時代風に言いますと、「わたしの独り子イエス・キリストの十字架という代償をこの地に君臨する者に与えて、わたしたちを救い出すために買い取った。」と語るのです。 「わたしは、あなたがを創造したあなたがたの主である。 あなたがたを贖ったあなたがたの主である。」から、もはや恐れることはないと言うのです。 ふたつ目の理由は、「わたしはあなたがたとどのようなところにおいても共にいる。 わたしは東から連れ帰る。 西から集める。 北に向かって行かせる。 南に向かって引き止めるなと言う。」から、恐れることはないと言うのです。 バビロニアから連れ戻すだけでなく、「救い主、贖い主」として選んだ民すべてを東西南北より一つに集めると、終わりの日になさることをすでに約束しておられるのです。 三つ目の理由は、「わたしの目にあなたがたは価高く、貴く、わたしはあなたがたを愛している。 だから、わたしの名によって呼ばわる者、わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者になる。」からだと言います。 主なる神を見ることも聞くことも拒んだイスラエルの民を、主なる神は「わたしの証人、わたしの僕」に選び出すと宣言する。 過去がどうであれ、私が選び出し一つに集められたイスラエルの民は、「わたしを知り、信じ、理解する」ようになると言う。 イスラエルの民の主なる神への背きにもかかわらず、恵みにより過去の古い姿を拭い去り神ご自身を示すまでの証人となる。 過ちを犯した者が贖い出され、約束されたことを必ず果たす神であることを証明する関係に変えられると約束されたのです。 「昔のことを思い巡らすな。 見よ、新しいことをわたしは行う。」と言われます。 神ご自身を悟るようになる「新しいこと」、神ご自身の大きな愛を悟り知らせるまでの「新しいこと」を、「昔のように」ではなく全く新しい救いとして行うと宣言するのです。 それほどまでに私たちが主なる神の前に高価で貴いものであると、過去の過ちを帳消しにしてくださって、愛してくださって、用いてくださるまでに引き上げてくださるのです。 「今や、それは芽生えている」と言います。 過去に縛られることなく、今まさに起ころうとしている新しい神の業に自らの霊の目と耳が開かれるようにと迫るのです。