「今を生かされる」 フィリピの信徒への手紙3章1~11節
「あの犬ども、よこしまな働き手たち、切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」に、「注意しなさい、気をつけなさい、警戒しなさい」と、パウロはフィリピの教会の人たちに語りかけます。 罵声を浴びせ強く非難しているかのような激しい言葉から、緊迫した教会の事態を感じます。 パウロの対決姿勢は激しく鮮明です。 直接の相手はユダヤ人キリスト者たちでしょう。 最初の頃のキリスト者は、「キリストの復活」の事実によってユダヤ教徒の中から立ち上がって生まれてきたのです。 ユダヤ教の安息日を、キリストの復活を喜び賛美するために週の初めの日曜日に変えて礼拝する群れとして生まれてきたのです。 このキリストの十字架と復活の恵みを薄めて、慣れ親しんだユダヤ教の色合いを滲ませる「しるし」や「行い」を重んじようとするユダヤ人キリスト者たちに、異邦人伝道者であるパウロは「かつて」の自分の姿に決別し、過去を辿ってきて気づかされた新しい「今」の姿を明らかに示すのです。 罪の赦しや救いは、罪人自身の体に直接刻まれる切り傷である「割礼」によって果たされるのでも、罪人自身の生活に求められる行いによって果たされるのでもない。 自ら聖なる者になることのできない存在であり、自分のしるしや行いによって自ら聖なる者となることができると思うことこそ自分を誇りとするものである。 キリストがこの地上で果たしてくださった働き、恵みを空しくするものである。 このことをユダヤ人キリスト者たちに向けて、そして「かつて」のパウロ自身に向けても激しく語るのです。 「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身、ヘブライ人の中のヘブライ人である。 律法に関しても著名な律法学者のもとで学んだ者で、その行いの熱心さにおいては非のうちどころのない者である。」と、生い立ち、家柄、学識、履歴、指導者、模範者として自らを誇っていたと自ら告発するのです。 そのうえでパウロは7節で、「しかし」、「かつて、自分にとって有利であったと思っていたこれらのことを、ある時から損失と見なすように、キリストのゆえになった。」と過去形で語ります。 8節以降においては、「キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。 キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」と現在形で語るのです。 自らを厳しく律するパウロは、神の求められる要求がどれほど凄まじいものであるかを知らされていたのでしょう。 神の求める聖なる者とは程遠い者であると気づかされていたのでしょう。 そのパウロがダマスコへの途上で死んでよみがえられたキリストに出会った。 今までプラスと思っていたものがすべてマイナスと思うまでに逆転が起こされた。 「かつて」の自分との決別がキリストによって起こされた。 サウロという「かつて」の自分が「今」のパウロに造り変えられて生かされていると語るのです。 私たちは、この地上の旅の途上にあります。 途上にありながらも、キリストの死と復活に与かりキリストの体の一部として結ばれるのです。 肉体の死を越えて、このキリストとの結びつきは続くのです。 キリストが再びこの世に現れる時には、キリストと共に新しい体となって新しい神の国に現れ出ることになるのです。 パウロは、「キリストとその復活の力とを知り、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」と語っています。 「かつて」の自分を見つめ、そこから断絶し、「今」の自分はキリストに絶えず捉え続けられている。 同時に、この自分もまたキリストを捉え続けようとしている。」と語り、「キリストに憶えられる、捉えられている、知られている」という恵みと同時に、「自らがキリストを憶える、捉える、知る」ことの大切さを「キリストと共に生きる喜び」の中に見出しているのです.