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「キリストの言われる軛」 マタイによる福音書11章25~30節

2023-07-09

 冒頭に「そのとき」とありますが、並行記事であるルカによる福音書によりますと、福音宣教のためにイエスが送り出した72人の弟子たちが喜んで帰って来た時(ルカ10:21-22)とあります。 弟子たちが口々に、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と喜びの声を挙げている一方で、「数多くの奇跡が行われた町々が悔い改めなかったので、イエスが叱り始められた。」とも記されています。 この宣教活動は失敗であったのかもしれませんが、イエスは父なる神に「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」と感謝と喜びの祈りをささげるのです。 イエスはその地上での生涯を「父なる神の子」として、親子の交わりの中に終始生きられたお方でした。 イエスは、「わたしを見たものは、父を見たのだ。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。」(ヨハネ14:7,8)とまで、父なる神との一体感を証言されています。 何をほめたたえているのかと言えば、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 父よ、これは御心に適うことでした。」と確信をもって祈るのです。 「知恵ある者や賢い者」とは、イスラエルの社会を牛耳っているユダヤ教の指導者たちのことです。 「幼子のような者」とは、今、イエスによって宣教の業に遣わされ、その計り知れない力と知恵に驚き、イエスの前で喜んでいる愛する弟子たちのことです。 片田舎の漁師であった人たち、取税人や安息日に礼拝を守れない社会的に疎まれていた人たち、小さな存在、無きに等しい人たちのことです。 「これらのこと」とは、イエスが盛んに語ってこられた隠された神の国の奥義、福音の恵みという父なる神のみ心のことです。 イエスはこの恵みの奥義が、「知恵ある者や賢い者」には隠されて、この「幼子のような者」に示された。 社会的に疎また力の弱い人たち、無きに等しい人たちという存在を通して、神の救いの業が起こされた。 この驚くべきことを感謝し、賛美の祈りをイエスはささげているのです。 「父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。 父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」と祈りを続けます。 父を他にしてだれもその子を知る者はいない。 み子によらないでは、だれも父なる神を知ることはできない。 すべてのことは、この世において父から子に委ねられていると親子の姿を語りつつ、神の子であるイエスを通して、神のご愛、神のご真実を受け取っていっている。 そして、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。」と呼びかけるのです。 イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。 『わたしが求めるのは、憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学びなさい。」(9:12-13)と言われていることを忘れてはなりません。 「知恵ある者、賢い者」に象徴される「正しい人」、「丈夫な人」ではなく、「罪人と呼ばれている人」、「病人」を招くために、律法の戒めによる「いけにえ」ではなく「憐れみ」を求めるのであるとイエスは言うのです。 「律法の軛、人間の正しさの軛」を捨てて、イエスと共に歩む労苦と不安と重荷を背負わされたすべての人のために、憐れみをもって「わたしの軛」を負いなさいと招いておられるのではないでしょうか。 「幼子のような者たち」が喜んで感謝しているように、「恵みの軛」を受け取りなさい、「柔和で謙遜な者」という神の平安のうちに憩う存在となるようにと願うイエスの祈りなのです。 



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