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「育てられていく神の民」 マルコによる福音書4章13~20節

2023-05-28

 ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎え、弟子たち「一同が一つとなって集まっているところ」に、「聖霊が一人一人の上にとどまった」。 すると弟子たちが「聖霊に満たされ、霊が語らせるままにいろいろな言葉をそれぞれが語り出した」と言います。 「宣教する教会の誕生日」、イエスの福音の宣教開始の号砲が神の働きによって鳴り響いた出来事ではなかったかと思わされるのです。 弟子たちは何も分かっていないこの世に向かって、イエス・キリストを自分自身の言葉によって宣べ伝える力と勇気、ふさわしい言葉が与えられて直ちに働き始めた。 イエスが処刑されたエルサレムの町の中、宗教的にも精神的にも伝統的にもユダヤの支配の中、武力的にも政治的にもローマの支配のもとにある中、そのような社会に向けて恐れることなく、人がまるで変ったかのように語り始めた。 何の計画も準備もなく、組織も体制もなく、資金も援助もなく、まとまった教えや理解があったわけでもなく、聖霊が一人一人に降ったその瞬間から「宣教する群れ」となっていった。 弟子たちの思いや都合や状況に全く関係なく、神の業が始まった。 人間の計画や決断ではなく、神ご自身がイエス・キリストの福音を告げ知らせようとしているとしか言いようがないのです。 宣教するのは、神ご自身です。 その為に神は聖霊を注いで、力や知恵を与え、ご自身のみ心を私たち神の民を用いて果たされていくのです。 神によって「強いられた恵み」でしょう。 ペンテコステこそ、「神の民として育てられていく教会」、「新たに造り変えられて一つにされていく教会」の始まりではなかったかと思うのです。 ある日突然注がれた「聖霊」に、イエスが譬えで語られた「蒔かれた種」が私には重なってくるのです。 私たちは「蒔かれた種」を受け取って、その隠されている神のみ言葉の中にある神の命の鼓動を、実感として果たして受け取っているでしょうか。 受け取ったなら、新しい命の芽生えという祝福の約束を見出しているでしょうか。 もし、この隠されていたみ言葉の中にある神の命の鼓動を、自分自身の命の鼓動として受け取り、晒されている厳しい現実の世に生きていくことができるとするなら、どんなに幸いなことかと思わされるのです。 
 蒔かれた場所によって、その種が奪い去られたり、根が張らなかったり、邪魔されて実がならなかったりする。 あるいは、豊かに実がなり神の祝福に満たされる。 「蒔かれた種」には、必ず実が成る、成長する命が秘められている。 神のみ言葉には、人を造り変え育て上げる命がみなぎっている。 その種は、あらゆるところに蒔かれている。 神の言葉は、弟子たちにも、周りの人々にも、私たちにも、この世のあらゆる人たちのところにすでに語られている。 神のみ言葉は、私たちひとりひとりに受け入れられるのを待っているのです。 ペンテコステの日に、イエスの弟子たちは何の用意もなく突然受け取って新しく「種を蒔く人」となると、弟子たちの祝福の約束を「蒔かれた種の譬え」ではなく、「種を蒔く人の譬え」として語っておられるのです。 更にイエスは、「種を蒔く人の譬え」に、「ともし火の譬え」と「秤の譬え」を付け加えています。 ともし火は、周りを照らすためではないか。 隠れているものであらわにならないものはない。 神の言葉であるイエスの福音は密かに語られるものではない。 だから、「聞く耳のある者は聞きなさい。 何を聞いているかに注意しなさい。」と言います。 福音の言葉も、私たちのものさしで小さく聞くなら小さく与えられる。 しかし、大きな期待をもって祈り願うなら、考えもつかない実りにあずかることになる。 神の秤に沿うよう、注がれる聖霊を求め祈りましょう。 「種を蒔く人」の祝福が、私たちには恵みとして約束されているのです。



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