「感謝、愛されている者として」 イザヤ書 41章 10節
「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。 たじろぐな、わたしはあなたの神。 勢いを与えてあなたを助
け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」
これは、預言者イザヤによる神の民イスラエルへの解放と救いの言葉です。 彼らは選ばれた民としての使命を果たすことができませんでした。 なぜなら彼らは律法を誤解し行いによって義とされることを求め、神に従うことができなかったからです。
発達心理学の礎を築いたエリク・H・エリクソンは「心理社会的発達理論」を提唱し、自我の発達を8段階に区分しました。 その中で、1歳から3歳までの3段階の基本となる発達段階に「基本的信頼」が人生において重要な役割を果たすと考えました。 「基本的信頼」とは、「自分が生まれてきたこの世界は安全で信じていい。自分は居ていい」という自信を与える信頼感です。 特に1歳半までにそれが培われるというのです。 エリクソンによると、この基本的信頼が得られなかった子どもは、その後の発達段階になんらかの支障をきたすと語っています。 エリクソン的に言えば、イスラエルの民に欠けていたのはその「基本的信頼」だったのかも知れません。 彼らは、互いに愛し愛されるために与えられた律法を誤解し、それを守らなければ自分たちは神様に愛されないと思い込んでしまったのです。 それはとても悲しいことで、子どもが親に対して「良い子でないと、愛してもらえない」と思い込むのと一緒です。 しかし、実際には神は彼らを深く愛し、導き守る神であったことをこのイザヤ書のみならず、いたるところで聖書は証ししています。
教会が世に伝え、分かち合うのは、「神の愛」です。 そして、その愛が見える形となって来られたのがイエス・キリストです。 ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。」(1ヨハネ4:10)と証言しました。 だからこそ大切なことは、その愛に信頼すること、私たちを行いによってではなく、恵みによって救ってくださる神の愛によって生きることなのです。 私たちは、旧約のイスラエルの民のように愛されるため義とされるために生きるのではなく、既に赦され愛されている者として恵みによって歩むのです。
北海道に犯罪や非行に走った子どもたちを受け入れている「家庭学校」という施設があります。 そこで昔、谷昌恒という先生がおられ、子どもたちに「私たちの心の中には相反する二つの思いがあります。 一つは、『よし、やってみよう!』と思う心と、そんな気持ちに水を差すような『どうせやっても無駄だ』と思う心です。 しかし、イエスさまは、私たちが『もうだめだ。どうしようもない』と考えてしまっている状況の先におられるのだ。 だからあきらめないで、チャレンジしてみよう」と、希望を与え、励ましていたといいます。 先ほど「基本的信頼が得られなかった子どもは、その後の発達段階になんらかの支障をきたす」とありましたが、エリクソンは、たとえそうであったとしても少年・青年期、そして大人になってもそれを補うに余りある人間関係が与えられることによって、人は「基本的信頼」を取り戻せると補足しています。
私たちもまた、人を救いに導き、積極的な生き方へと導く神の愛を信じ伝え、既に愛されている者として歩んでまいりたいものです。
(大富キリスト教会 小田衞牧師)