秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「過ぎ行くものの中で見出すイエスのみ言葉」 マルコによる福音書13章28~37節

2023-03-19

 イエスは、「いちじくの木から教えを学びなさい。」と言われます。 冬からいきなり訪れる夏の収穫の時期が近づくと裸の枝に葉を茂らせるようになる「いちじくの木」、その枝ぶりを見て夏の近づいたことが分かる。 同じように、終わりの日と思えるような恐ろしい出来事を見たら、「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」と言われるのです。 「人の子」とは、黙示思想の言葉の表現で、終わりの日に現れるメシア、神が最終的に遣わす審判者のことです。 再び現れるイエスご自身を指すのです。 ヨハネの黙示録には、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。 だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をするだろう。」(3:20)と記されています。 「終わりの日」とも思えるような恐ろしい出来事を見たら、再び来られる「イエスの時」が近づいたことを悟りなさい。 「終わりの日」には、新しい世界が始まる誕生の時である。 待ち望んで信じる人は、今は信仰の目で主イエスを見ているが、「その日、その時」には必ず顔と顔を突き合わせて見ることになると言われるのです。 イエスは、この「終わりの日」を、いちじくの木の葉が生い茂り新しい命がみなぎる「収穫の日」、私たちの救いが完成される時、神の裁きが救いの日に変えられる「喜びの日」に譬えておられるのです。 イエスご自身がこれから引き受ける受難の後、別れの最後の教えとして、「その日、その時」の「喜びの日」に備えるようにと、これから苦難に直面するだろう愛する弟子たちを励ましておられるのです。 「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。」 言い換えれば、これらのことがみな起こるなら、この時代は、この天地はいずれ過ぎ去っていく。 「しかし、わたしの言葉は決して過ぎ去らない、滅びない。」と言われるのです。 「イエスが示されたすべての言葉」、「イエスの十字架と復活の福音」は、過ぎ去ることなく生き続ける、成し遂げられると励ましてくださっているのです。 「その日、その時はだれも知らない。 天使たちも、子も知らない。 父だけがご存じである。」と言い、だから、「気をつけていなさい。 眼を覚ましていなさい。」と三度も繰り返し、イエスの最後の教え「終わりの日の預言」を締めくくられたのです。 しかし、ゲッセマネで苦悩の真っ只中でイエスが祈られていた時、弟子たちはわずかひと時も目を覚ましていることができなかった。 しかし、このような時にさえ、レプトン銅貨二枚をささげた貧しいやもめの姿をイエスは目にします。 また、「なぜ、こんな無駄遣いするのか」と咎められても、純粋で高価なナルドの香油をイエスの頭に惜しげもなく注いだ女性に出会います。 イエスは最後まで耐え忍んで、父なる神の民を愛することに一切をささげておられました。 受難を前にしたこの時に見出した二人の女性の姿に、過ぎ去るものの中に神の御言葉、神の約束の確かさを見出し、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と語られたのです。 これらすべての苦難は体験することになる。 ご自身の十字架と復活と聖霊の働きによって、神の国の姿をこの世においても見ることになる。 それによって成し遂げられる神の救いの業によって、信じる者には「終わりの日」の命がすでに与えられることになる。 その救いの出来事の完成の時「終わりの日」の始まりに、あなたたちは生かされているとイエスは断言します。 すでに新しい命に生きる者も、地上の命に生きる限り朽ちるべき体による苦しみがあるだろう。 しかし、あなたがたは「終わりの日」を待ち望みながら生きていきなさいと言われるのです。 死に定められた体が、朽ちることのない霊の体に変えられることをうめきながら、希望をもって待ち続けることができるようになると励ましておられるのです。 



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元