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「つまずきの主とともに新しく歩む道」 マルコによる福音書14章27~31節

2023-03-26

 最後のエルサレムでの「過越の祭りの食事」と「苦悩するイエスのゲッセマネの祈り」に挟まれた箇所です。 イエスは自ら「過越の祭りの食事」の準備をし、場所までも手配し、食卓の主として振る舞われたのです。 過越祭に屠られる小羊として、パンとぶどう酒をこの後すぐ十字架に架けられ裂かれるご自身の体と流された血に譬えられたのです。 人間が神の子を裁いて、十字架に処刑するという愚かな人間の取り返しのつかない過ちが行われる。 イエスに敵対する者も、イエスを深く敬愛し従ってきた者も、程度の差こそあれ等しくイエスを人間の死に至らせることになる人間の浅はかな姿が浮き彫りになるのでした。 過越の食事が、イエスによる「最後の晩餐」となったその席でのことです。 衝撃的な言葉が、イエスの口から語られるのです。 「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」 それだけではない。 「あなたがたは皆、わたしにつまずく。」とまで言われるのです。 イエスはすべてをご存じのうえで、十二弟子のユダの裏切りもペトロの三度の否定も、他の弟子たちが逃げ去っていくことも予告されるのです。 ゼカリア書(13:7)に「イスラエルの牧者が撃たれ、羊は散らされることになる。 しかし、イスラエルは主の名を呼び求めるようになる。」と書いてあるように、この羊飼いの死こそご自身の死であり、父なる神のご計画に定められたものであるとイエスは言われたのでした。 この「つまずく」という言葉は、イエスの十字架による「死」の意味を理解することも、受け入れることもできない弟子たちの有様、失望と恐れからイエスと共に歩もうとする心を失い、見捨てて離れてしまうという弟子たちの有様を示します。 その言葉の直後にイエスは、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と言われたのです。 これからつまずき倒れ、離れたままになるであろう弟子たちをイエスは放置されず、十字架により裂かれたからだと流された血によって、再びガリラヤに集めると宣言されたのです。 イエスにつまずき、散り散りバラバラになって逃げ出した弟子たちは、復活されたイエスによって再び集められ、立ち上がらされ新しい群れとなると、もうこの時にイエスは約束されているのです。 このイエスの言葉に、ペトロが「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」と猛然と反論します。 この反論にイエスは、「あなたは今日、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と応じます。 「鶏が二度鳴く前に」とは、ほんのわずかな間にということでしょう。 「三度」とは、繰り返し徹底的にということでしょう。 ここまで言い張ったペトロは、その口が渇かぬ間に、「そんな人は知らない」とイエスが言われたとおり三度も否定したのです。 人間の土台が音を立てて崩れていく様を示しています。 イエスはそうなることを十分知ったうえで、「先にガリラヤへ行く」と言われたのです。 この言葉には、「赦し」の意味合いも、生まれ変わらせる神の復活の力も、新しい羊の群れが起こされるという宣言も含まれています。 ペトロに限らずすべての弟子たちに対して語られた言葉です。 ユダでさえも、最後の晩餐の機会を与えてくださっているではありませんか。 ペトロを筆頭に弟子たちは、神の隠された救いのご計画を理解することができなかった。 自分たちが従ってきたイエスが神から捨てられたと思わされたことが、「つまずき」でした。 私たちは、自分だけを頼りにする土台が崩されなければ、「イエスに対するつまずき」を経なければ分からないのです。 自らの貧しさ、はかなさ、弱さの自覚を経て初めて、神の救いの業を味わうことができるのです。 この弟子たちが築き直されて、再びガリラヤに集められて、イエスの十字架の福音を語り始めたのです。



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