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「私たちに代わって飲む杯」 マルコによる福音書10章35~45節

2023-02-05

 12弟子のうちの2人、「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」とイエスに迫ります。 イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねると、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」と単刀直入に畳みかけるのです。 イエスがエルサレムの都に入るなら、イスラエルの新しい王になると弟子たちは直感していたのでしょう。 イエスは、「ご自身の苦難の時」が迫っていることを確信し、エルサレムに向かって先頭を切って歩んでいます。 弟子たちには、その苦難の時がくることを三度にもわたって予告し、その覚悟を促しておられたのです。 他の弟子たちも、出し抜いたヤコブとヨハネに腹を立てたと言いますから、腹の中は同じでしょう。 イエスの思いとはかけ離れた弟子たちの姿です。 イエスと弟子たちは、全く別の道を一緒に歩んでいたということです。 「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」とイエスは2人に言います。 何も分かっていない弟子たちに、「杯」と「バプテスマ」という言葉を用いてイエスは尋ねます。 「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか。」と問います。 イエスの言う「杯」とは、神の怒りとしての裁き、苦しみでしょう。 神の怒りにあなたがたは耐えられるのか。 ともに神の裁きを受けるのかと言うのです。 イザヤ書(51:17)が語る「神の憤りの杯」ということです。 バプテスマ=殉教の死と当時用いられていたことを思えば、「わたしが受けるバプテスマ」という言葉も、神の怒りに裁かれる永遠の滅びを指すのです。 この神の裁きに、あなたがたは堪え得るのかということです。 このイエスの問いに、弟子たちは軽率にためらいもなく「できます」と答えるのです。 この弟子たちにイエスは、「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる。 わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。 定められた人々に許されるのだ。」と答えられたのです。 これはどういうことでしょうか。 この二人とのやり取りを終えて、イエスは一同を集めて、「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。」と言います。 神に「定められた者」は、この世の支配や力から解放された者であるはずである。 「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」とイエスは語られたのです。 「仕える」とは、自分のため、自己満足のため、仕える相手を道具や手段としてはならないでしょう。 「僕になる」とは、決して人の権威や支配に隷属するものではありません。 パウロが、「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。 奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)と語っているとおりです。 私たちはイエス・キリストにおいてのみ、イエス・キリストのゆえにのみ、僕となり、神に仕え、人に仕えるのです。 イエスご自身が、「仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と言われたように、イエスの生涯は人を神の愛の中に取り戻し、生き返らせるためにご自身をささげる生涯でした。 私たちの過ちの代価として、「贖いとして献げられた」のです。 私たちが本来受けなければならなかった神の憤りの裁きを一身に身に受けたのです。 「私たちに代わって」、「罪人の一人に数えられる」ためでした。 私たちはこのバプテスマを受け、イエスの焼き印を身に受けて、主イエスの飲み干された「杯」を飲み、「定められた者」としてこの地上の生涯を歩むのです。



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