「苦難を通って衣を白くされた者」 ヨハネの黙示録7章9~17節
著者ヨハネが見た幻とは、「天で行われている礼拝」の光景でした。 玉座に座っておられる方がいた。 その周りに、24人の長老たちと四つの生き物が取り囲んでいた。 玉座に座っておられる方の右の手には、天地の創造から天地の完成までの神の救いのご計画が書き記された巻物があり、七つの封印で封じられていたと言います。 その巻物を受け取った者がいた。 ヨハネはその者を、「ダビデのひこばえ、屠られた小羊、全地に遣わされる神の七つの霊をもっている者」と表現します。 24人の長老たちと四つの生き物は、その小羊にひれ伏して礼拝をした。 そこに新しい祈りと賛美が沸き起こった。 その際、大地の四隅に四人の天使が立って、見張っていた。 「神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、四人の天使たちに守られ、裁きの日は留められた。」と言うのです。 救いの完成が果たされる時、すべての地から呼び集められ救われる人々、つまり「新しいイスラエル」の大群衆を指し示すのです。 当時の「刻印」とはその所有者を示すもので、「神の刻印」を押される人々とは、玉座に座っておられる神ご自身が「わたしのものである。」とはっきりと宣言された人たち、神に導かれ、その御心に委ねて、それぞれの生涯を歩むことを赦された人たちのことです。 曲がりなりにも、イエスの歩まれた神が備えられた道に従って行こうとした人たちです。 この地上にいる限り、この「神の刻印」を目で見ることはできません。 だれも大差ないように見えるのですが、終わりの日には、はっきりとその刻印が現れ出てくるのです。 「天で行われている礼拝」に、「だれにも数え切れないほどの大群衆」が登場します。 「なつめやしの枝を持ち、白い衣を身に着けていた」と言います。 「なつめやし」とは聖書においては勝利のシンボルで、「白い衣」とは洗い清められた衣のことです。 「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」と書かれているように、信仰のゆえに苦難を通ってきた人たちなのです。 神がその人にしか赦しておられない苦難、神ご自身が出口を用意し前もって備えてくださった苦難なのです。 ですから、この地上での信仰ゆえの苦難は避けるべきものでも、遠ざけるべきものでもありません。 むしろ、その人にしか味わうことのできない体験として、イエス・キリストと深く繋がれていく大事なプロセスなのです。 贖いのしるしとして屠られたイエス・キリストによって赦された者として勝利のシンボルをもって玉座の周りに集められるのです。 彼らは、歩んだ生涯で何か功績があったわけではない。 様々な信仰ゆえの苦難を通って、悔いて、砕かれ、ただイエス・キリストの十字架に与るだけ、神の憐れみにすがってきただけの人たちでしょう。 それが救いの完成の日には、神の国に招かれている。 迎え入れられている。 「神の刻印」を押されている。 小羊なるイエス・キリストの血によって洗い清められ、贖われて白い衣を着ることが赦されている。 その神の憐れみを受け取った大群衆が、玉座に座る神とイエス・キリストの前にひれ伏して、賛美し、祈り、礼拝をささげている光景を、希望のしるしとしてヨハネは受け取ったのです。 大群衆は神に仕え、神は彼らとともにいる。 飢えることも渇くこともなく、涙は拭われると言うのです。 クリスマスに教えられたことは、イエス・キリストの出現を「待つ」ことです。 そこに天の呼びかけが突然「くる」のです。 私たちの「待つ」ことと天からの呼びかけが「くる」ことが結びつけられるところに、「天における礼拝」と「地上における礼拝」が結びつけられるのです。 遣わされてきたイエス・キリストとの出会いを喜び、しっかりと心の内に宿して参りましょう。 私たちは、「神の刻印」が押されていることを決して忘れてはなりません。